Author: Ryosuke

ジェレミー・リフキン『エイジ・オブ・アクセス』

渡辺康雄訳、集英社、2001年、原著は2000年。

第1部 次なる資本家が生まれつつある
第2部 文化的共有財産の囲い込み

読んでから気がついたけど、もう20年前の本なんだな。そう考えれば確かに「所有からアクセス」という指摘には先見の明。いわゆる経験経済へのシフト。もうすこしマーケット寄りの議論かと思いきや、けっこう人文学寄りというか、とくに後半は、文化、とくに文化の地域性が経済に搾取(という言葉は使っていないけども)されることで社会の基本的な基盤が変容を被ることについての危惧が述べられている。また、新旧多くの思想や議論が引かれているので、論点のインデックスとしても利用できる。

メモ。ほんとにメモ。


・トフラー&トフラー、規模の経済からスピードの経済へ。

・品物は無料で配布、サービスで儲ける。

・生産の視点からマーケティングの視点へ。

・各人の人生が一日24時間商品化する方向へ。

・芸術は、広告会社とマーケティングコンサルタントの人質に。

・「「所有」して「利用」するか、「アクセス」して「楽しむ」かの問題をめぐって、世界中の人々や企業のあいだで真っ向から対立する二つの勢力への分裂が起こっている」(207)〔観光について〕

・「近代に生きる人々が探し求めたものが目的だったとするならば、ポストモダンの世界に生きる人々が求めるものは遊び心だろう」(265)

・「国民国家の威信が失われてきたことで、他の何にも増して最大の問題になっているのは徴税だ」(311)

・クロフォード・マクファーソンの見解として、「豊かに満ち足りた社会では、他者を排除する権利としての財産はそれほど重要ではない。・・・・・・そのような社会では「十全なる生」から排除されない権利が各人を有する最も重要な財的価値になる」(325)

・「文化生産は常に文化領域からの借りものだ。決して商業領域で発生することはない。その意味でちょうど工業生産が天然資源に依存するのと同様に文化領域の生〔なま〕の資源に依存している」(336)

・「遊びは文化経済の中で、ちょうど工業化経済の中の仕事がそうだったように重要度を増している。しかしそこでの遊びは文化領域で生産される遊びの影に過ぎない。有料なので、社会的経験というよりは契約的経験と呼ぶのがふさわしい。純粋な遊びが持つ参加型の特徴が、金銭関係で置き換わっている。市場で遊びを享受しても受け身的・個人的経験となり、積極的・集合的経験とはならない」(358)

[J0163/210527]

スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』

橘明美・坂田雪子訳、草思社、2019年。原著は、2018年。

上巻
第一部 啓蒙主義とは何か
 第一章 啓蒙のモットー「知る勇気をもて」
 第二章 人間を理解する鍵「エントロピー」「進化」「情報」
 第三章 西洋を二分する反啓蒙主義
第二部 進歩
 第四章 世にはびこる進歩恐怖症
 第五章 寿命は大きく延びている
 第六章 健康の改善と医学の進歩
 第七章 人口が増えても食糧事情は改善
 第八章 富が増大し貧困は減少した
 第九章 不平等は本当の問題ではない
 第一〇章 環境問題は解決できる問題だ
 第一一章 世界はさらに平和になった
 第一二章 世界はいかにして安全になったか
 第一三章 テロリズムへの過剰反応
 第一四章 民主化を進歩といえる理由
 第一五章 偏見・差別の減少と平等の権利

下巻
第一六章 知識を得て人間は賢くなっている
第一七章 生活の質と選択の自由
第一八章 幸福感が豊かさに比例しない理由
第一九章 存亡に関わる脅威を考える
第二〇章 進歩は続くと期待できる
第三部 理性、科学、ヒューマニズム
第二一章 理性を失わずに議論する方法
第二二章 科学軽視の横行
第二三章 ヒューマニズムを改めて擁護する

科学や技術を含む「啓蒙」が世界を良くしてきたし、これからも良くしていくと正面を切った進歩史観を主張して、近代文明に対する悲観的な見方を全面的に斥ける。近現代の文明を悲観的に捉えるか、楽観的に捉えるか、それは確かに大きな問題で、議論の対象として読む価値のある本だと思う。一方で、これだけ広汎な主題を次々に論じて、ピンカーの主張がすべての点で正しいわけがない。立場については一貫しているとしても、雑多な議論の寄せ集めであることにも注意する必要がある。

さらに大きく分けると、主に上巻で示されている「進歩」の証明と、下巻で示されている「新無神論者」的な反宗教的ヒューマニズムの立場の問題があるが、今回の記事では前者を中心にメモをしておきたい。

「現代の多くの著述家は、啓蒙主義による理性の是認と、「人間は完全に合理的な主体だ」というばかげた主張とを、混同している。これほどひどい誤解があるだろうか。カント、スピノザ、トマス・ホッブズ、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミスといった啓蒙思想家たちは好奇心旺盛な心理学者でもあり、人間が非合理的な感情や弱点をもつことを十二分に承知していた」(上36)。これはなるほどだ(笑)。世俗主義寄りの人にも多い誤解とおもうけどね。

二〇世紀の飢餓の最大要因は、共産主義と政府の無策であると。反共産主義、(下巻の)反イスラーム。分かりやすくアメリカ的。

不平等の拡大を否定。全体のパイが拡大しているのだから、貧しい人もずっと豊かになっているというのが基本的な論法。ピケティもこの論法で斥ける。また、不平等と不公正を混同してはならないと言う。ときどきそうだなと思うことをスローガン的に挟むんだな。一直線な平等追求を揶揄して、「最も健康な人を抹殺し、最も優秀な若者を退学させるのが人類のためだとでもいうようではないか」(222)。意外なことに、ベーシックインカムはこれを擁護する。論拠はごく簡潔だが。

環境問題の重要性は、ピンカーもこれを認める。しかし、それは進歩によって克服すべきものである。「豊かな国だろうと貧しい国だろうと、経済発展は必須である。経済発展がなければ、今まさに起きている地球温暖化に対応できないからだ」(264)。その上で、カーボプライシング、それから原子力発電が鍵であると主張する。

暴力の世界的減少は、ピンカーは別の書物でもこれを論じている。テロへの恐怖は、世界が安全である証であるとする。民主化は暴力や殺戮の減少に与すると、これもアメリカ的。死刑もそのうち消滅するよ、と。

うーん、メモっていてつらくなってきたな。読んでいる最中はそれなりにおもしろく読んでいたが。いちいち挙げないけど、ところどころでガバガバ理論も多いのだよね。過去から現在にいたる変化の再評価には、首肯できる部分も多いし、科学や技術による達成が正当に評価されていないのでは、とか、悲観的展望が強すぎるのではという問題意識については相当部分、同意する。しかし、現在までの変化と、現在から未来への展望は切り分けて考えないといけない。これまで進歩をもたらしてきたからといって、これからそうである保証はないわけで、ここまでくると進歩信仰と言われてもしかたがない。個別の論点に即して考えないと。漸進的に進歩しつづける変数もあるだろうけど、そうではない変数も多い。飢えから満腹は大いなる進歩だけど、満腹から先はどんな進歩が見込めるのか、といった。こんな感じで、考えさせられる本。

[J0162/210525]

諸富徹『資本主義の新しい形』

岩波書店、2020年。

第1章 変貌しつつある資本主義
第2章 資本主義の進化としての「非物質主義的転回」
第3章 製造業のサービス産業化と日本の将来
第4章 資本主義・不平等・経済成長
終章 社会的投資国家への転換をどのように進めるべきか

経済学のなかでどういう位置づけになるのかは分からないけど、これは勉強になる。日本経済の停滞の説明としても明確。

1970~80年代にはじまり、2010年代に急速に台頭した「資本主義の非物質的転回」。従来、「情報化」「金融化」「グローバル化」等々と言われてきた現象は、資本主義の非物質主義的転回の一側面を表している。経済活動が生み出す価値は、「物質的価値」から「非物質的価値」へと重点を移してきている。

カーシェア・サービスやUber が自動車製造の需要を縮小させるなど、新しい技術は物質ベースの経済を縮小させる。しかしそれでも、非物質主義的転回とは、脱物質主義ではない。モノが、非物質的な価値を表現し、伝える媒体へと変わっていくのである。「製造業のサービス産業化」とはその一環である。デジタル化技術はたんに生産過程を効率化するだけではなく、消費者との接点を拡大してくれる。この非物質化は、消費・労働・資本といった領域で生じてきており、その現れとして資本の面では人的資産やそこへの投資が重要性を増してきている。

今日の資本主義にとって非物質主義的転回と並ぶ二大課題は、「脱炭素化」である。脱炭素化は、エネルギー集約型の産業構造から、知識集約型の産業構造への転換を求めるため、このふたつの課題に密接に関わりあっている。実際の環境問題の発生、カーボンプライシングといった政策の採用、それからこれまでの各国の実績からして、脱炭素化を経済成長の足かせとみる見方はもはや古く、脱炭素化を図ることこそが経済成長の鍵であり条件となっている。人材への投資に対する見方と同様に、こうした理解において日本社会は決定的に遅れをとっているのである。日本の大企業はむしろ、脱炭素化動向に逆張りの方針をさえ採っており、そして実際に衰退を続けている。

資本主義の非物質主義化は、人材への投資、教育への投資の重要性を増大させる。また同時に、社会的な不平等が経済成長の妨げになる状況を生み出す(142)。不平等は、教育機会の格差を生み、人的資本の質的低下をもたらすからである。筆者は、こうした観点から、ベーシックインカム以上に、教育訓練機会の拡大に投資をする「社会的投資国家」をめざすべきだと述べる。

最後に筆者はいう、「日本企業は納得するまでに時間がかかるが、いったん踏み出すが、取り組みは加速度的に進んでいくだろうし、その力量をもっている。過去二〇年間で一敗地にまみれた日本企業だが、以上の展望を踏まえると、次の二十年は失地を回復できるかもしれない」(220)。

日本の教育をみていると、そこまで将来に楽観的にはなれないのだが、日本ではむしろ企業が社会を動かす動因になっていることを考えれば、そういう見方もできるのかもしれない。たいへん勉強になったが、資本主義の非物質的転回という命題に関わって、投資の変容、実体経済から非実体的な資本経済への転回(カジノ資本主義?)といった状況の位置づけが次の問題として気になった。

[J0161/210525]