Author: Ryosuke

為末大『諦める力』

小学館文庫、2013年に単行本で出版されたものに3章を加えて文庫化したもの。

第1章 諦めたくないから諦めた
第2章 やめることについて考えてみよう    
第3章 現役を引退した僕が見たオリンピック
第4章 他人が決めたランキングに惑わされない
第5章 人は万能ではなく、世の中は平等ではない
第6章 自分にとっての幸福とは何か

陸上選手のキャリアとして為末の歩みに特筆すべき点は、少なくともふたつある。陸上の世界では毎年のようにたくさん早熟の選手が生まれて、ほとんどすべてが成長が頭打ちになって消えていくものだが、為末は数少ないその例外だ。中学の時に100m・200mで日本一。高校では400mと400mハードルで日本一、法政大学に進学して以降も400mHで日本のトップを走り続け、2001年・2005年の世界陸上で連続銅メダルを獲得している。日本の陸上競技において、世界のトップに立つために、早熟であることはおそらく重いハンディキャップにすらなりうる。トラック競技でメダルを獲ること自体、とんでもない歴史的快挙であるが、為末はこうした条件下でそれを成し遂げているのだ。

もうひとつは、為末は決して世界の表彰台の常連として、銅メダルを獲得したわけではないという点だ。これはもうひとりの偉大なアスリート、室伏広治とはちがう。室伏は長年世界のトップにとどまる中で、五輪・世界陸上で合計5つのメダルを獲得した。為末は、ふだんは決勝に残るか残らないかというレベルの中で、世界陸上という大舞台にピークを合わせ、実際に2つのメダルを獲得したのだ。1つではない、2つである。これは偶然ではありえない。

もちろん、身長が170㎝しかないにもかかわらず、世界のトップ・ハードラーになったことも、分かりやすく凄い事実だ。こうした事実は、為末が思考面・精神面でもいかに卓越したアスリートであるかということを示唆している。

この本を読むと、華々しくみえる彼のキャリアの中でも、100mを諦めて400m、さらには400mHに「転向」することがいかに葛藤に満ちた転機であったのかが窺われる。「一意専心」的な日本に支配的な発想を超え、自分に与えられた適性や条件に照らしてときには進む道(「手段」)を切り替える勇気をもつべきだというのが、本書の中心的メッセージである。おもしろいのは、ひたすらな努力を是認する「日本的価値観」を乗り越えた為末が、「諦め」という、これまたすぐれて日本的な表現へとたどり着いているところである。

ただ、もしそれだけならば、それは結局一種の成功談か処世術にすぎない。しかし、次の言葉はどうだ。「人生にはどれだけがんばっても「仕方がない」ことがある。・・・・・・この世界のすべてが「仕方がある」ことばかりで成り立っていないということは、私たち人間にとっての救いでもある」(223)。世界は自己責任論だけでできあがっているわけではない、そこにはある優しさのようなものがあると、彼はみるのだ。

[J0066/200802]

船木享『死の病と生の哲学』

ちくま新書、2020年。がんになった哲学者の思索の記録、ということなのか。最初の方はおもしろく読み進んだが、なんだかどんどん心が離れていってしまった。あとがきによれば、最初は人生論を書こうとしたこともあったが、がんになってからがん療養という旅日記を書くにいたったとのこと。

こういう本が書きたくなる気持ちは分かるような気がして、自分もがんになったらそれこそブログか何かに、この本に似た、だが実際にははるかに拙劣な文章を書きだすかもしれないと思う。そうだとしても、一読(いや半読か一見くらいか)してみて、どうもこの本の立場が、日記なのか、体験記なのか、自己省察なのか、社会に向けて何かを書きのこそうとしているのか、中途半端なところが目についてしょうがない。『一年有半』よろしく、その中途半端さの裏に、病気体験の特権視を感じてしまう。

真に哲学的な問題ならば分かるが、多くの研究が存在する社会の問題を、病気になったからといって自分の経験と感覚(と手許の数冊の本)だけでとうとうと語ることに違和感を感じるのは、僕の発想が社会科学のスタイルに染まってしまっているからかもしれない。もちろん『ボディ・サイレント』流のフィールドワークというわけでもないし。どうせならもっと、ぎゅっとした箴言集みたいにしてもらったほうが素直に受けとれるかも?

[J0065/200730]

今中博之『アトリエ インカーブ物語』

河出文庫、2020年。2009年に出版された『観点変更』を文庫化とのこと。この方や「インカーブ」のこと、不勉強にして知らなかったけどこんな取り組みがあったとは。

第一章「一〇〇万人に一人」の、私は何者か
第二章「デザイン」とは何か
第三章「アカデミズム」の呪縛が解ける
第四章 なぜ、アトリエ インカーブは生まれたか
第五章 バイアスを解く
第六章 現代美術の超新星たち
第七章 アトリエ インカーブの展開
第八章「インカーブのようなところ」をつくる
第九章 社会性のある企て

著者の生い立ちから、知的に障害のあるアーティストが集うアトリエの設立、そのさらなる展開と語られていくのだが、この本全体を読みながら感じる時間の流れが、過去から未来に向かう物語式のものというより、フラッシュが断続的に焚かれたような印象であるのは、どういうわけだろう。その場面場面における考えの切り分け方が、截然としているからだろうか。

アール・ブリュットやアウトサイダー・アートの運動と近い領域で動きながら、それらの概念に著者自身が感じる違和感を隠さず、妥協をしない。「デザイナー」というアイデンティティについてもそうで、著者の考え方や言葉自体をどこまで肯定するかどうかは別として、大事な概念をどこまでも自分自身が納得のいく言葉として定義し、定義しなおし、それを行動の原理とする姿勢に学びたい。

著者の目ざすところ、「コンテンポラリー・アートの先にあるもの」は、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートのように分かりやすい看板ではまだ表現できていない、あるいは表現すべきようなものではないようだ。たしかにこの本から教えられたのは、「あるのにないものとされてきた」アール・ブリュット的なものを「ある」状況にするには、できあがった作品の扱いや範疇分け以上に、アートを生み出す場所の整備が大事だということ。つまり、障がい者特有のアートというものはなく、またそう考える必要もないが、障がいをもつアーティストにあわせた制作環境は必要だということ。このことは、本書に描かれているインカーブの思想や実践の一部でしかないが、一読者としてそこが発見だった。

もうひとつ印象に残ったのは、作品販売の利益はすべて作者に帰属させることで、はなはだしい給与格差が生まれているという状況の生々しさ。いわばこれは「あえて」のことであるわけで、根本的な平等をめざす営みであるがゆえに生じる格差に、「普通なしあわせ」を確保しようとする著者の戦いの激しさを想像する。

[J0064/200730]