Author: Ryosuke

吉岡一男『仙台城下の民俗信仰』

大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年。仙台市では裸参りのどんと祭で親しまれている大崎八幡宮が主催している「仙台・江戸学」講座。その内容を小冊子として刊行しているシリーズ「仙台・江戸学叢書」。

1 仙台における寺社の成立
2 仙台の三十三観音信仰
3 仙台の守本尊信仰
4 仙台の“まつり”と信仰
5 仙台の石碑に見る信仰

一番紙幅を割いて記述しているのは、仙台三十三観音札所それぞれの縁起・由来。いずれも寺社縁起によくある内容といえばそうなのだけど、仙台や宮城の地名を眺めているだけでも楽しい。

なかでも、仙台らしいものをひとつ。第八番札所・宝光院観音堂(青葉区本町)について、「明治維新後に廃寺となった真言宗の寺である。藩政時代には寺領五貫文を有し、かつての寺小路にあって城下中心の札所として知られていた。ここには大仏堂があって毘盧遮那仏の八尺坐像が安置されていたところから、大仏前(おぼとけまえ)の地名が付けられた。この前をかつて同心町が通っており、ここにかつて真言宗湯国山宝光寺があった。この寺は京都御室の仁和寺末で、修験の長海法師の開山とされる。この法師は山形県が長井在に住んでいたが、伊達輝宗夫人である義姫の依頼で湯殿山に登り、祈願したところ藩祖政宗が生れたとされる。そこで伊達家は湯殿山信仰を行い、放光寺という修験寺を建てた。のち、伊達氏の仙台移住に伴って宝光院と名称を改め、寺領五貫文が与えられた。ここは湯殿山へ参詣する領内四カ寺の一つでも知られていた。しかし、明治維新で廃寺となり、聖観音を祀る観音堂は大仏前に残されたが、昭和二十年七月の仙台空襲で焼失し、本尊だけが焼失をまぬがれて近くの満願寺に移された。現在、満願寺観音堂に合わせまつられている」(21)。

「仙台・江戸学叢書」のラインアップはこちら。
https://www.oosaki-hachiman.or.jp/edogaku/

[J0411/231014]

宮本常一『日本の宿』

八坂書房、2009年。底本は1965年発行。いまはなき社会思想社の現代教養文庫中の一冊であったらしい。

1 旅する人びと
2 やどのおこり
3 信者の宿
4 行商と宿
5 伊勢の御師
6 江戸を中心に
7 いろいろの宿
8 湯の宿
9 旅のしかた
10 文明開化の宿

宮本常一といえば偉大な旅人として有名であるが、本書の記述も、歩いて旅をするように、急がず淡々と、そうして気がつけば深いところに歩を進めている宮本節。

細かな記述や指摘はやはり、いちいちおもしろい。加えて、まれに宮本自身の考え方がうかがわれる箇所にも目が行く。

宮本の江戸幕府評。
「当時は政治の府としては東に寄りすぎていた上に海上交通に依存することのきわめて少ない土地であった。ほとんどの交通は陸路によらなければならなかった。海に面しておりつつ内陸性がつよく、人々の眼を海の彼方に向けさせることが少なかった。海はむしろ恐るべきものとしてうつった。それが後に海外渡航禁止政策を実施させる大きな要因になる。そして人々の眼を江戸へ向けさせ、また江戸を中心にしてすべての政令が出されることになる。この体制が近世封建制を生み民衆はその枠の中で息苦しい生活をしなければならなくなるのだが、全国統一を完成してさらに徳川という家によって長く政治支配をつづけようとする体制を整えるためにはあらゆる無理が国全体に強いられることになって来る。その中でもっとも悲劇的な無理は人間性の無視である。その愛情が主従関係とか義理によってゆがめられる。主従関係を主にするために、他のあらゆるものが無視せられることになる。
「その中でもっとも人間性を無視したものは人質の制度である。忠誠をちかい裏切をしないしるしに肉親のものを相手方に人質として送ることは戦国時代にも見られたことであったが、それは長くても数年程度のことで、一生にわたることはなかった。ところが幕府はそれを永久化してしまったのである。すなわち大名の妻子を江戸にとめおくことにし、大名を領国と江戸の間を往復させる方法をとった。このことがどれほど大きく日本人をゆがめていったかわからぬ。人間性が無視せられ、権力に対して弱い、しかも海を忘れた民族性が育って来るのである」(129-130)

網野善彦とも仕事をした宮本常一であるが、つまりは、江戸時代と比べれば、それ以前の日本列島の社会は「人間性を無視せず、権力に対峙し、海とともにあった民族性」が見られたと捉えているのである。

田村善次郎氏による解説も興味深い。

「昭和30年代までの宮本先生はいわゆる観光開発にはきわめて否定的であった。経済的に自立度の低い地方が観光資本や心ない観光客に荒らされるだけであると危惧しておられたのである。しかし、30年代の後半からの高度経済成長期を迎え、急増する観光開発や観光人口のありようを直視する中で先生の考えも変っていった。地方がこれを対抗するには、地方自体が生産基盤を拡充し、文化的・経済的に自立できるように努力することが第一であるが、同時に、地方を訪れる人びとが、地方の生活を本当に理解し、仲間として良き相談相手となるような、良い旅人になるような、そういう啓蒙が必要だと考えるようになったのである」(284)

まさに本書がきっかけとなって、近畿日本ツーリストの協力のもと、1966年に宮本常一を所長とする日本観光文化研究所(最初は資料室)が設立され、本ブログでもよく取り上げる神崎宣武氏のような方も育っていったわけである。

[J0410/231014]

村上リコ・Thores 柴本『ロンドンに建ったガラスの宮殿』

たくさんのふしぎ、2023年11月号、福音館書店。

1851年、ロンドンのハイド・パークで開かれた世界最初の万国博覧会。そのときに建てられた建物が水晶宮。万国博覧会が終了後、水晶宮はロンドン南郊に移設されて、世界の芸術品を収める展示場に生まれかわったが、1936年に火災で消失。

・・・・・・と、ここまではなんだかんだ聞いてきた話ではあるが、後日談のところで「アレ?」と。恐竜の模型の写真に、次のようなキャプション。
「1854年に水晶宮がシドナムへ移転したとき、当時の科学の知識をもとにつくられた古生物の像。その後に研究がすすんで、さまざまに新しい発見があり、21世紀の復元像はだいぶちがうものになりました。この古生物たちは、19世紀の人が想像したままの姿に修復され、ロンドン郊外のクリスタル・パレス公園の池にいまもいます」・・・・・・とな。

これ、以前、セント・クリストファーズ・ホスピスを訪ねたときにぶらぶら立ち寄った、そのすぐそばの公園だよと気づく。恐竜の模型がたくさん置いてあって、風変わりだなあと思ったけど、まさかそんな歴史的なものだったとは。古くてしょぼいジュラシックパーク、寂れた公園の遊具的な物体だとばかり。そういや、たしかに駅の名前もクリスタル・パレスだったけど、今の今まで、万博とは結びつかなかった。こういう歴史のあり方は、やはりロンドンおそるべし。


[J0409/231010]