Author: Ryosuke

多根令己『道を訪ねて』

出雲市民文庫10、出雲市教育委員会、1992年。

——北部地域
 大寺薬師/霊雲寺/朝村権現/衆善奉行碑/旅伏講/夏越しの祭/似たり石/矢尾峠/鼻高山/鳶ヶ巣城/常松と正導寺/かぶら矢
——中央部地区
 般若寺古道/三谷越え/矢尾まで/矢野の里/大津・西光寺/大津・円光寺/妙仙寺川/岩樋まで/番匠碑
——南部地区
 宇那手/法王寺まで/大山権現/浅間権現/清谷/宇那手・大平/稗原要害山/丸山/ヒメジ/上之郷城/上津まで/さわりが池/大坊/唐墨城/姉山城/王院山/馬庭佐平太/大袋山/乙立見田原
——西部地区
 久奈子神社/井上林道/久遠山妙連寺/道路元標/兎霊碑/晩翠碑/雲照律師/妙見さん/崎屋地蔵/六部みち/乙立神西道/遷宮は愉し/妙見森—間谷/保持石妙見森/巳様

地元の郷土史家である筆者が、出雲を歩いて書いたエッセイ。それも、出雲平野あたりだけのことで、距離にしたら20キロ四方あるかないかでこの濃さ、出雲の歴史のきめ細やかさを味わうことができる。

出雲といえば、大社を中心とした神々の土地、古代の古墳に彩られた土地、数々のスピリチュアル・スポットを有する土地と、少しずつちがったレイヤーが重なってイメージされる場所で、たしかにそれぞれ出雲の表情のひとつではある。しかし、地元の人にとってのふるさととしての歴史民俗的な出雲はもうちょっとちがっていて、神社もあれば寺社もあり、近世の物語が古代神話以上に何気なくそして息づいているそういう場所である。こう説明してしまうと、もともと日本の地方はみんなそうなのかもしれないが、その分布の細やかさや、この風土にえもいわれず滲み出てくるものの中に出雲らしさがある。と、よそ出身者なりに感じ、考える。

もうひとつ印象深いのは、このように細やかに地元の歴史的風土を記し、それを大事に伝える著者のような方々が、この地方には多いことだ。たとえば、この著者も携わっていた郷土史の雑誌『大社の史話』。この雑誌はほぼ季刊誌として現在も発行されており、1974年の刊行以来、2023年現在で215号を数えている。それだけ記事を書く題材があるという面でも、寄稿や編集をする方々がいるという面でも、これだけの雑誌を年に4冊も発行しつづけることがどれほど驚異的なことか、ものを作ったことがある人なら分かるはずだ。

[J0414/231018]

林智裕『「正しさ」の商人』

副題「情報災害を広める風評加害者は誰か」、徳間書店、2022年。

第1章 「情報災害」とは何か
第2章 複合的「情報災害」と福島
第3章 印象操作という「引き金」
第4章 「情報災害」を記録するということ
第5章 「情報災害」と、その後
終章 教訓は生かされるのか

この本は、ふたつの面で意義を持っている。ひとつは、「情報災害」という、多くの部分で現代的な現象に迫ろうとした書であること。もうひとつは、情報災害の問題を軸にしながら、東電原発事故後に福島県で生じたことやその現状を記述した本であること。

「「情報災害」の実状とは、単に「モノが売れない」風評被害だけに留まるような代物ではない。「社会に絶望を広め、多くの人生を狂わせ、人を殺し、冒瀆する人災」である。ところが東電原発事故に伴う風評被害は悉く「なかったこと」にされ、人災でありながら責任すら問われなかった」(126)

「福島に対する風評は、政権攻撃の材料にするために拡大・温存されてきた。「風評加害」の中心の一角を担うのが「反権力」を是としてリベラルを自称する人達とその支持者達ばかりであった・・・・・・」(143);「自らも実は別の巨大権力であるという自覚がなきまま暴走し、恣意的に弱者を選別したり、弾圧することも厭わない。自分は権力に抵抗しているつもりなのに、やっていることは被災地・被災者の利益や人権を攻撃することになっている」(144-145)

「「情報災害の長期化を防ぎ、被害を低減させる」目的のためには、情報災害の「引き金」となり得る直接的なデマやフェイクニュースへの対策のみならず、時間と共にそれらに置き換わって「情報災害」を維持・温存させる「柱」の機能を果たす印象操作、すなわち「ほのめかし」への対策も併せて行うことが不可欠である」(157)

結局、こうした対策が講じられずに、放置されてきていると。林さんは、結局のところ、原発事故による「直接的な」被害者は生まれることはなく、むしろ風評や避難によるストレス等によって、多数の被害者が生まれてしまったとみている。「東電原発事故由来の被曝による健康被害は生じなかったが、そのリスクを過剰に恐れた言説、風評に伴った「避難のリスク」こそ多くの人生を狂わせ、命を奪った」(280)と。

「脱原発の論拠を「フクシマ」という神話に求めてしまったことは大きな不幸だ。深刻な健康被害がなくとも原発事故の責任が免責されるわけではなく、生み出された多くの分断による不幸は十分に脱原発の論拠にもなり得る。むしろ脱原発のためにこそ「フクシマ恐怖神話」への依存を脱却して、原発事故の被害を再定義するべき時期がきていると、私は強く感じる」(222)

原発事故の被曝による直接的な被害がほとんどなかったこと、福島での生活や生産物が安全であること、それから事故以降の「風評加害」が、反原発を標榜する陣営のものを含めて、批判されるべきものであること、それは本当の意味で福島県民の生活実態に関心を寄せていないがゆえに生まれたものであることについては、まったく林さんに賛同するし、またこうした本にまでこの事態を追究している努力に敬意を表したい。

ただ一方で、まず、ALPS処理水海洋放出を全面的に支持している点について、情報災害に関する本書の主張からただちにこうした結論が導き出されるものではないことには気になった。今回の海洋放出が安全性の面で通常の範囲の処理であることは分かるが、合意形成の手続きの問題もあるからだ。おそらく著者は、多くのタンクが立ち並び増殖していく状況にも福島県民として忸怩たる思いがあるのだろう。著者は、マスコミ報道にある放出反対派の漁民はもっぱら風評被害だけを心配するものと位置づけているようであるが、いずれにしても、福島県民の声がまずは第一であること、また政府やマスコミは風評被害に対する対策にも責任をもたなければならないことは、著者の主張のとおりである。

このこと以上に気になったのは、この本は、放射性物質による「直接的な」原発の健康被害はなかったとしていて、僕もその認識には反対しないのだが、現在廃炉作業が続いていて、これからも長く続かざるを得ないという事実についてはまったく触れていないことである。帰還困難区域もなくなったわけではなく、事故によって情報災害のほかに何も起こらなかったというわけではない。林さんの主張自体にはものすごく納得するのだが、ある種の原発推進派(あるいは事故責任の軽減)に都合良く利用されてしまっては、「反原発派」による風評被害拡大に対する反動として、今度は逆方向に行き過ぎてしまう。もちろんこれら「被害」の強調が、現在の福島における生活が危険であるかのように認識されては問題であって、著者の主張を受けて言えば、自然災害発生時も含めた廃炉作業の安全性や、帰還困難区域の解除計画について、みんなが冷静に認識ができるように、現実面でも情報面でも環境を整えていくべきということではある。

さて、情報災害の台頭については、次のような指摘が興味深い。

「特に現代社会において「情報災害」が多発する要因は、人々にとっての「信頼性を担保する存在」の不足と、それを補うための「救い」が多様化したことにもある。情報化社会かつ人権意識が高まり、「救い」も多様化した社会においては、誤った情報伝達の多くは、「正確な認識(Correctness)」あるいは「救い」と信じられ、共有された独善や正義によって行われる。それらが「情報災害」の発生や維持・長期化を支えている」(272-273)

「フクシマ恐怖神話」の批判など、たとえとして宗教関係の言葉が頻出する。

「東電原発事故から11年経ってもデマや「ほのめかし」を繰り返し、自分達の「予言」の成就を待ち望んでいるかのような人々は、たとえ彼らの内心にどれだけの「正義」があろうとも、もはや「カルト」と見做すべき存在なのだ」(276)

これだけ現実的あるいはヴァーチャルな社会空間の分断が進んでいる現在、「カルト」という言葉については、もはやこれをいったん宗教から切り離して、「宗教的カルト」と「非宗教的カルト」という区分を立てた方が適切なのかも知れないという発想を得た。

[J0413/231017]

つげ義春・大崎紀夫・北井一夫『流れ雲旅』

朝日新聞出版、2023年。もともとは1969年から『アサヒグラフ』で連載された紀行記事。自分は旺文社文庫版を持っているが、対談その他が加わっているほか、A5版でイラストや写真を堪能することができて、これは買い。

下北半島村恋し旅
東北湯治場旅
北陸雪中旅
四国おへんろ乱れ打ち
国東半島夢うつつ旅
篠栗札所日暮れ旅
秋葉街道流れ旅
最上川、里の渡し舟
放談会 流れ雲旅余聞(つげ義春・大崎紀夫・北井一夫・藤原マキ・近藤承神子)
異空間への旅人・つげ義春(文/大崎紀夫)
鼎談+1 五十年目の「流れ雲」(つげ義春・大崎紀夫・北井一夫・つげ正助)

すばらしい写真、すばらしいイラスト。文章はそのキャプションとして。

つげ単独の著作とはちがって、同行二人の眼を通して、つげ義春の独特な佇まいをうかがうことができる。大崎紀夫の文章や発言と比べてよく分かるのは、つげ義春の場合は、日本の古い村や町を歩いて描いても、ありがちな「ノスタルジー」の投影をしていないということ。そこにつげ義春が与える幻想の現在性と普遍性がある。

つげは、この編集本に新たに掲載された1973年の「放談会」にて、梶井基次郎「檸檬」冒頭の気分が「ピッタンコ」だと述べている。その「檸檬」から。

 何故なぜだかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。
 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂のいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

「ここがどこなのか どうでもいいことさ どうやって来たのか 忘れられるかな」と歌ったのは細野晴臣だったが。

つげはまた、旅に出る前、三日ぐらい前から緊張すると言って、次のように語っている。「自分の場合は安心して行けないのです。根を持っていないということが逆に自分を日常的なものに縛っている感じがするのです。一人で生活しているとか二人で生活するとかに関係なく、また出かけた後に日常が変ってしまうとかいう心配とも違う、何か恐ろしい感じなのです。だから仲々腰が上がらない。毎度なんです」(302)。

今回、朝日新聞出版社版を買って、改めて旺文社文庫版も手に取ってみたけど、この細身の明朝体が、これはこれで堪らないね。そういうマニアでもないので1971年の朝日ソノラマ版まで持っているわけじゃないけど、1981年当時の再版文庫ならではの「刷り増し」感みたいな味が、たぶんオリジナルより僕的には良い。いずれにせよ、今回の最新版も良いという話。
[J0412/231015]