Author: Ryosuke

神崎宣武『「湿気」の日本文化』

日本経済新聞社、1992年。

プロローグ
 「むし暑い」日本列島
 蔓延している皮膚病
 未発達な暖房器具
 生活文化の日本的特質
1 住まい―家の造りは「夏」を旨とすべし
 木と草と紙の家
 快適な住まい空間づくり
 切妻・寄棟・入母屋の三形式
 囲炉裏の機能
 なぜオンドルは定着しなかったか
 「京間」と「江戸間」
 「畳干し」の慣習
 洋館も和風建築
 通気性に富む障子や襖
 「仲間はずれ」を嫌う日本人
 プライバシーを守りにくい住居
2 装い―「裸」同然も無作法にあらず
 長着と短衣
 きものは平安時代に登場
 仕事記にみる庶民の知恵
 暑さ寒さをいかに防ぐか
 無類の風呂好き薬好き
 男女混浴はあたりまえ
 防虫・防湿効果の高い和箪笥
 「きもの礼法」の発達
 通気性のよい草鞋と足袋
 下駄の効用
3 食べもの―「古漬け」の味は忘れがたし
 日本人の「ご飯好き」
 「雑食」こそが主食
 「粒食文化圏」の特異性
 副食は「一汁一菜」
 白味噌と赤味噌の違い
 伝統の味「魚醤油」
 保存食品としてのなれずし
 酒づくりで重要な「火入れ」
 数多く発達した発酵食品
エピローグ
 風土論の展開
 日本文化の東西
 「照葉樹林文化」論の登場
 「湿気」の日本文化論

民俗学の立場からした、エッセイ風の日本文化論。著者の真骨頂は、ご自身による調査に基づいた諸研究だけれども、こちらは気楽に読める一冊。湿気や蒸し暑さがキーワードになっていて、全体に西南日本の状況を背景にしているようにも感じる。日本文化を語る上で、西と東の問題はやはり大きい。

[J0354/230415]

吹浦忠正『捕虜たちの日露戦争』

NHKブックス、2005年。

第1部 日露戦争と日本人捕虜
1 メドヴェージ村へ
2 明治論壇の一大議論
3 捕虜になった連隊長
4 体験記で読む捕虜生活
5 シベリア抑留とは雲泥の差
6 今に残る写真帖『配所廼月』
7 メドヴェージ村今昔記
8 釈放と帰還後の明暗
9 両国はなぜ厚遇したか
10 「戦陣訓」の萌芽
第2部 日露戦争とロシア人捕虜
1 七万人強の捕虜が日本へ
2 日本は捕虜を厚遇
3 厚遇のかげに
4 サハリンで、ロシア軍捕虜の殺害事件

日本軍や日本兵といったら一定のイメージがあるが、太平洋戦争時と日露戦争時では相当に違った行動や価値があったということを、ロシア兵の捕虜の扱いについて明らかにした労作。ごく一部での虐殺・虐待がなかったわけではないにせよ、日露戦争時は概して捕虜に対して厚遇がなされていたことを指摘。「第一次世界大戦から昭和初期までのほんの十五年足らずで、日本人の捕虜観は極端なまでにエキセントリックになっていった」(150)。

なるほどと思ったのは、敵軍の捕虜の扱いは、自軍兵士が投降することに関する価値観と裏表になっている様子。「降伏は恥」という観念が広がれば、捕虜の扱いも非人道的なものになりやすい。日露戦争時でも、捕虜への「寛容」が行きすぎると、日本兵が投降しやすくなって悪影響を及ぼすという議論はあったらしい。

おやっと思ったひとつの箇所。式場隆三郎が、二次大戦直後、身内のひとが捕虜になったことを聞いたことをきっかけに『俘虜の心理』という著書を著したという話。式場隆三郎は本当、いろんなところに出てくるなあ。

あれこれ文献も紹介されているので、メモ&デジタルコレクションのリンクを。下記にピックアップしたもの以外もまだまだ掲載されている。

陸軍大臣官房編『明治三十七八年戦役俘虜取扱顛末』(1907年)
別ヴァージョン
陸軍省編『軍事機密日露明治三十七八年戦役統計』(改題して『日露戦争統計集』)
銜翠居士編『配所廼月』(1907年):写真集
長谷川伸『日本捕虜志』(1955年)
棟田博『兵隊百年』(1968年)
才神時雄『松山収容所』(1969年)
才神時雄『ロシア人の捕虜』(1973年)
才神時雄『メドヴェージ村の日本人墓標』(1983年)
櫻井忠温『肉弾』(1906年):当時のベストセラーとなった戦争文学として。この著者にはほかにも、いろいろ参考になりそうな著書がある。
水野廣徳『此一戦』(1911年):写真入り
式場隆三郎『俘虜の心理』(1946年)

本ブログ記事中、関係するエントリーとしては、日清・日露戦争下の社会状況を描いた、大濱徹也『明治の墓標』

[J0353/230406]

山本ひろ子『摩多羅神』

副題「我らいかなる縁ありて」、春秋社、2022年。

1 摩多羅神と夢の女人―壇上遊戯としての恋)
2 毛越寺の二十日夜祭
3 毛越寺の摩多羅神と芸能―「唐拍子」をめぐって
4 摩多羅神紀行―服部幸雄『宿神論』の向こうへ
5 出雲の摩多羅神紀行(前篇)―遙かなる中世へ
6 出雲の摩多羅神紀行(後篇)―黒いスサノオ
補章 出雲の摩多羅神新考
7 我らいかなる縁ありて今この神に仕ふらん―常行堂と結社の神
8 大いなる部屋―修正会から三河大神楽へ

2010年、島根県安来市の古刹清水寺で、中世の摩多羅神像がみつかったことが、筆者による摩多羅神をめぐる旅のターニングポイントとなっている。長らく正体不明だったこの像は、雪害でお堂が潰れた際には、一体だけ厨子から飛び出して無傷だったとのことで、「中世の奇瑞譚さながらで、まさに「出現」というにふさわしい」(246)と。調査で判明した胎内銘が重要で、「嘉暦二二己巳(*1329年)七月廿二 雲州清水寺常行(*堂) 摩多羅大明神 仏師南都方法橋 覚清生年六十一歳」となっている。

出雲にはもうひとつ重要な摩多羅神信仰の跡として、鰐淵寺常行堂がある。常行堂と摩多羅神の組み合わせは、叡山から念仏行に伴って各地の有力寺院に伝えられたもので、叡山常行堂のほか、日光山常行堂、毛越寺常行堂があり、いずれも深く秘された秘法相伝、結社の神として祭祀されてきたという。

鰐淵寺の摩多羅神がスサノオとみなす説が『懐橘談』などにあり、そこに筆者は「異神」としてのスサノオを認める。ここで注目される土地は韓竈神社のある唐川で、唐川にはスサノオの「脛の骨」を埋めた墓があるという伝承があるのだという。典拠のリンクを貼っておきましょう。
>『島根県口碑伝説集』https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1465126/1/1 
また『雲陽誌』には、鰐淵寺の山上にもスサノオの葬地があったと記されているらしい。

「摩多羅神が接近遭遇し、一部で合体を果たしたのは黒いスサノオの方であった。いくつかの所伝と土地に痕跡を残す黒いスサノオに、摩多羅神の影がうっすらと重なっている。一方、杵築するスサノオには、摩多羅神は関心を示さなかったし、近寄りもしなかった。それも当然のことだろう。国土造成の行為をする神に、異神たる摩多羅神がすりよるはずがない」(160)。

こうした神話学的ないし山本学的な解釈のほかには、歴史学の立場からは、次のような近世初期出雲大社における「神仏隔離」原則の推進に関する指摘がある。「中世の否定による大社祭神のスサノオからオオクニヌシへの転換、及びその杵築大社との関係の断絶にともなって、鰐淵寺では蔵王権現をスサノオと主張することができなくなり、しかし浮浪山の山号のためにはスサノオとの関係が不可欠で、そのことから摩多羅神をスサノオと読み替え、それを近世鰐淵寺の新たな守り神にしたということなのだろう。杵築大社と同じ大社造りの摩多羅神社の創建が、杵築大社からの断絶を宣告された寛文七年(1667)だというのも、決して偶然のこととはいえない」(井上寛司「出雲大社と鰐淵寺」『もう一つの出雲神話』特別展図録、出雲弥生の森博物館、2013年、36頁)。つまり、「杵築大社が否定したはずの中世という時代の様相を、形を変えながらも今日まで伝えている」の鰐淵寺なのだという。

出雲というと、古代がピックアップされがちであるが、中世もまた濃い。

[J0352/230404]