Author: Ryosuke

S. ヴェイユ『根をもつこと』(1)

上・下巻、冨原眞弓訳、岩波文庫、2010年。原著は、副題「人間存在に対する義務宣言のための序論」で、1943年。

第1部 魂の要求するもの(秩序;自由;服従;平等;序列;名誉;刑罰;言論の自由;安寧;危険;私有財産;共有財産;真理)
第2部 根こぎ(労働者の根こぎ;農民の根こぎ;根こぎと国民)
第3部 根をもつこと

シモーヌ・ヴェイユが衰弱のため、34歳でロンドンで客死する前に残した遺著。純粋な思索の書としてよりも、運動を喚起する「宣言」としての性格が強い文章。また、各部でテイストが大きくちがうことも特徴。

この記事ではまず、「この書にみえる、ヴェイユという人の思想」という面についてノート。この書はいきなり、「義務の観念は権利の観念に先立つ」(上 8)という厳格にもみえる言挙げからはじまる。訳注にもあるように、カントを思わせるこの宣言だが、義務をめぐるヴェイユ自身の思想は、本書の一番最後、編集者が草稿から付けくわえた「補遺」のなかに示されている。――自ら同意した労働と死、とりわけ肉体労働と死こそ、従順という徳の完璧なる形態である。それというのは、労働と死こそ、神が人間に与えた懲罰であり、それを自ら甘受することは、神への従順という至高の善に繫がるからである――このように、ヴェイユは言う。

こうしたヴェイユの義務観念は、内なる道徳律を天上の星とならべたカントとは異なって、まさに「働いて糧をえることで生きる」という生物的・人間的条件に即している。「死と労働は必然に属する事象であって、選択に属する事象ではない。人間が労働のかたちで宇宙におのれを与えるのでなければ、宇宙は糧と熱のかたちで人間をおのれを与えてはくれない」(178)。だからこそ、「芸術、科学、哲学など、肉体労働ならざる人間の諸活動はことごとく、霊的な意義においては肉体労働の下位におかれる」と言われるし(179)、ひいては「根こぎ」が問題にもなるわけだ。

ヴェイユにとって、信仰は人間生活の中心にある。根こぎをもたらしているのは、金銭というかたちですべてを数値化する拝金主義であり、信仰を切り崩す科学万能主義である。フランスにおける教育の非宗教化政策は批判されなければならない。ただし、農村部における司祭や教会の役割を論じるヴェイユの口ぶりには、宗教の必要に関して知識人/大衆を区別する、啓蒙思想家によくある論法がうっすらと感じられるが。

フランスへの祖国愛、愛国心もまた、ヴェイユにおいてはきわめて重要で、義務に属する事柄である。ただし、近代の国民国家と、祖国としてのフランスは異なる。「国家はその行政機能において祖国の資産管理人として現れる」のであり、一般には「無能な管理人である確率が高い」(上 256)。それでも、祖国の存続と平穏という目的に関して、国家への服従は義務であるとされている。

[J0327/230116]

欲求論にフォーカスした別記事「S. ヴェイユ『根をもつこと』(2)」

石川明人『宗教を「信じる」とはどういうことか』

ちくまプリマー新書、2022年。

第1章 そもそも「信じる」とは、どういう行為なのか
第2章 神を「信じ」ているとき、人はそれをどう語るのか
第3章 この世には悪があるのに、なぜ神を「信じ」られるのか
第4章 同じ宗教を「信じ」ていれば、人々は仲良くできるのか
第5章 神を「信じ」たら、善良な人間になれるのか

章のタイトルが内容をよく表しており、「神を信じる」ことに関するステレオタイプな誤解を、ていねいな説明でもって解いている点で良書。

以下のコメントは、実際には不可能なないものねだり。

まず、宗教なるものに懐疑的な人が読んだとして、現にいま信じている人の考えについては理解が深まるとしても、「なぜそもそも信じるのか」という疑問は解消しないだろうと思う。もっとも、そんなこと答えられないわけだが、溝は溝としてなんとか説明できないか(これは本書にではなく、一般的な課題として書いている)。

本書に対するよりストレートなコメントとしては、宗教を説明しているといいつつ、ほぼすべてキリスト教なんだよね。分量などの問題を度外視して言えば、すくなくとも、宗教としてのキリスト教の特殊性の説明は必要になってくる。とくに、日本における宗教懐疑論者は、日本の神道や仏教の伝統には比較的肯定的な一方で、キリスト教やイスラームの「外来宗教」に対して疑問を投げかけるケースが多い。これも、新書一冊に負わせるにむりがあるのだけど、宗教の民俗的側面・慣習的側面も説明できたらとおもうし、個人主体における信仰だけを扱っていると、いま話題の宗教二世問題も抜け落ちてしまう。

いずれにしても、よくある誤解を相手に宗教を説明していく本書の試みは、これをさらに深めていきたい有益な試み。

[J0326/230107]

A.パーカー『眼の誕生』

副題「カンブリア紀大進化の謎を解く」、渡辺政隆・今西康子訳、草思社、2006年。

第1章 進化のビッグバン
第2章 化石に生命を吹き込む
★第3章 光明
第4章 夜のとばりにつつまれて
第5章 光、時間、進化
第6章 カンブリア紀に色彩はあったか
第7章 眼の謎を読み解く
第8章 殺戮本能と眼
第9章 生命史の大疑問への解答
第10章 では、なぜ眼は生まれたのか

原著は2003年、有名な本をようやく読んで、そしてやっぱりおもしろかった。

カンブリア大爆発が、視覚を発達させた三葉虫の登場を契機にして生じた捕食関係によって一挙に生じたとする「光スイッチ」説。訳者の渡辺さんは「軍備拡張競争の開始」と表現している。

カンブリア爆発では、すべての動物門で突如として硬い殻が進化している。少量の光しか存在しない深海のような場所では、生物の個体量や体積量は変わらなくても、生物種の多様性が低い。進化速度を計算すると、魚類のような像形成眼の進化は50万年足らずの短い期間で達成されうる。5億4400万年前から5億4300年前のあいだの100万年間のうちに視覚は生まれた。この期間には太陽光に関する環境変化が背景としてあったかもしれないが、この点は保留されている。いわばこのとき、地球の動物に光が灯されたのだ。先カンブリア期の捕食行動はかなり行き当たりばったりだったが、視覚の誕生はこの状況を一挙に変えた。三葉虫こそ眼をそなえた最初の動物であり、能動的捕食をはじめた動物であった。

この本の読みどころはひとつではない。ひとつ目はもちろん、こうした光スイッチ説の提唱だ。二つ目は、進化に関する仮説を検証する手法の好例となっていること。化石を分析し、現生生物を研究し、光の物理的性質を学ぶ。太古の事象に関する推論であるにもかかわらず、その証拠集めには手堅さが感じられる。これらと比べたら、認知心理学的な進化論がとっている論法がいかに脆弱か。

三つ目は、視覚にまつわる生物たちの生存戦略の驚くべき多様性、パノラマ。本書全体がそうだけども、とくに「第三章」。光スイッチ説の提示に対しては寄り道に近いかもしれないが、この章は、何度でも読み返したい、優れた自然史の読み物になっている。

[J0325/230105]