Author: Ryosuke

安達宏昭『大東亜共栄圏』

副題「帝国日本のアジア支配構想」、中公新書、2022年。

序章 総力戦と帝国日本―貧弱な資源と経済力のなかで
第1章 構想までの道程―アジア・太平洋戦争開戦まで
第2章 大東亜建設審議会―自給圏構想の立案
第3章 自給圏構想の始動―初期軍政から大東亜省設置へ
第4章 大東亜共同宣言と自主独立―戦局悪化の一九四三年
第5章 共栄圏運営の現実―期待のフィリピン、北支での挫折
第6章 帝国日本の瓦解―自給圏の終焉
終章 大東亜共栄圏とは何だったか

そんな経済力もないのに、戦争継続を可能にする自給を目ざして、場当たり的にぶちあげた「大東亜共栄圏」構想。意志決定機構が分立していて政策が進まず、南方の棉作政策のように、虫害が危ないと最初からわかっていてやっぱり失敗したりする。「今も昔も日本は」と言ってしまいたくなるような、ことの顛末。

たいへん勉強になるが、大東亜共栄圏を「八紘一宇」的なスローガンから切り離して、「経済的な自給確保」こそが「本質」と言ってしまうのはどうか(iii)。どちらだけを「本質」にしてしまわなくても、両者は両立する。筆者がまさに描き出しているとおり、大東亜共栄圏構想において、多分に名目的・形式的にぶちあげた「自主独立」が、各国の自己主張へと繫がっていった。つまり、経済的政治的な建前が、逆手に取られるかたちで建前以上の理念として機能してしまったわけだ。こうした機微こそが大事なのだから、「イデオロギーより経済が本質」と断じてしまってはいけないのでは。実際、大東亜共栄圏の理想をもって、帝国日本の政治体制を正当化する人たちは今でもたくさんいるわけだからね。あるいはそうした人たちに対する論駁として経済的目的を強調しているのかもしれないけど、やはり両面を捉えてこその歴史的現実の把握なのでは。

[J0324/230104]

堀井憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス』

講談社現代新書、2017年。

序  火あぶりにされたサンタクロース
1章 なぜ12月25日になったのか
2章 戦国日本のまじめなクリスマス
3章 隠れた人と流された人の江戸クリスマス
4章 明治新政府はキリスト教を許さない
5章  「他者の物珍しい祭り」だった明治前期
6章 クリスマス馬鹿騒ぎは1906年から始まった
7章 どんどん華やかになってゆく大正年間
8章 クリスマスイブを踊り抜く昭和初期
9章 戦時下の日本人はクリスマスをどう過ごしたか
10章 敗戦国日本は、狂瀾する
11章 戦前の騒ぎを語らぬふしぎ
12章 高度成長期の男たちは、家に帰っていった
13章 1970年代、鎮まる男、跳ねる女
14章 恋する男は「ロマンチック」を強いられる
15章 ロマンチック戦線から離脱する若者たち
終章 日本とキリスト教はそれぞれを侵さない

うーん、ブログ記事に書くか迷ったが、いちおう、自分向けのメモとして(つねにだけど)。

堀井さんといえば、「ホリイのずんずん調査」はじめ、調べ物をしながらおもしろいコラムを書く人。この本でもその手腕が活かされて、日本のクリスマス受容史をたくさんの興味深いエピソードとともに描き出す。そこはおもしろいのだけど、この本はちょっと、あいだあいだに挟んでくる「思想が強い」んじゃないですかね。もちろん、個人の見解が強いこと自体はまったく問題がないのだけど、クリスマス受容史の記述と「日本人はキリスト教を受容しないし、するべきでない」という彼の主張がうまく噛み合っているようにみえないというのが一点。もう一点は、そのように「日本人はキリスト教を受容しないし、するべきでない」と主張しつつ、「これまでクリスマス受容史は直視されてこなかった」「これまでクリスマス批判が無自覚に繰り返されてきた」といったまた別種の見解がごちゃっと挟まれていて、全体としてこの本自体に説教臭を感じてしまう。コラムニストとしてはとても好きな方なんですけどね。

[J0323/230103]

小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』

講談社現代新書、2021年。

第1章 そもそも生物はなぜ誕生したのか
第2章 そもそも生物はなぜ絶滅するのか
第3章 そもそも生物はどのように死ぬのか
第4章 そもそもヒトはどのように死ぬのか
第5章 そもそも生物はなぜ死ぬのか

進化のなかで、生物とその死を捉える。一番のポイントは、生物の誕生と多様性の獲得のためには、個体の死や種の絶滅といった「死」が重要であって、死とは、進化が作った生物のしくみの一部であるという見方。

もうひとつのポイント、生物の死にはパターンがあるということ。捕食されて死ぬ、あるいは細菌のようにアクシデントで死ぬというしかた。一方で、ゾウリムシなどは、一定回数の分裂をすると「老化」して死んでしまう。また、多くの昆虫のように、生殖を終えるとそれで死んでしまうパターン。ある種のクラゲは若返りをして寿命では死なないが、寿命で死ぬという「パターン」は、生物にとってデフォルトではなく、進化のために「選択」された、ひとつの生存戦略にすぎないということ。

ただし、寿命で死ぬ生物の多くが「ピンピンコロリ」で死ぬのに対して、大型哺乳類、とくに人間では老い衰える期間が長い。寿命の問題は、もとをただすと、有性生殖のしかたに端を発している。生物のからだの構造が複雑になっていくと、偶然に任せた遺伝子の変異によってフルモデルチェンジをするような進化をしかたが困難になる。そこで、有性生殖というしかたで、偶然による変異と異なる遺伝子上の多様性の確保の方法が採られるようになる。それがさらに進んでいくと、子どもに対する保護や教育が必要になり、その分寿命も延長される。

長寿化した生物について、細胞レベルでは、老化というしくみが、がん化していく細胞を排除する役割を果たす。もともと細胞老化とは、がん化のリスクを抑えるしくみなのである。しかし、ヒトでいうと、55歳くらいからは幹細胞自体も老化して異常な細胞が増えてしまい、個体自体の老化が進むとともに、がんの発症が増加していくことになる。つまり、進化の可能性を確保するための細胞老化というしくみが、人間に寿命をもたらしているのである。

この本を読んでまず興味を惹かれるのは、ハダカデバネズミの生態の特殊性だ。ハダカデバネズミはがんにならず、通常のネズミの10倍以上にあたる30年という寿命を誇るという。がんにならないため、たんに寿命が長いだけでなく、死を迎えるまで健康なピンピンコロリでもあるという。その背景に、哺乳類としては例外的な「新社会性」を有し、子どもを産む個体とそうではない個体との分業制を敷いており、一匹あたりの労働量が少ないという理由があるのだという。すごいぞ、ハダカデバネズミ。著者はこのハダカデバネズミに、人間の長寿化のヒントを求めている。

ひとつ、本書から得られるポジティブな学びとしては、「教育」あるいは文化の伝達は、生物進化の面からしても重要な手段として発達してきたものだということ。人間社会にとって生殖だけを種の進化、ならびに生存の要件と考えるのはあやまりである。冷静に考えると当然のことだが、「文系/理系」的な区分の発想がこう考えることを妨げてきたのだろう。著者は、生物進化の観点から、多様性を損なわない教育こそが大事だと述べている。

次に批判的なコメントを。この著書は学びが多く、誰にでも広く薦めたい本である。とくに、もちろん、生物学的な知見は著者の専門性に裏打ちされている。だが、生や死の意味を考えるのに、このレベルの見解にとどまっていてはいけない。まず、当たり前のように、進化過程を押しすすめることが望ましいであるという前提に立っているが、本当にそうなのだろうか。単純に考えてみても、何億年も変化なく生存しているシーラカンスのような生物の存在が、なにかほかより劣っているということはないはずだ。本来、生物進化の観点からすれば、生存していること自体が一番の価値である。

もっと踏みこんで考えれば、人間種の進化がどのような意味で望ましいと言えるのかを考える必要がある。まず、地球生物全体にとって、人間種の進化がどこまで望ましいと言えるのか。しばしば種の絶滅が進化に与してきたとは、著者自身が述べてきたことでもある。たしかに人間種の絶滅が望ましくないとして、それがどの立場からみて望ましくないのかを明確にしておくことは大事だ。さらにまた、人間種の進化の望ましさは、個々の人間個人にとっての望ましさとどこまで重ねあわせることができるか。それを考えることができることこそが、進化の果てにここにいる、人間という種の特殊性である。こうした事情を考えていくと、本書の思考はまだまだ浅い。

「これまでこのように進化をしてきた」という知見は、まさに生物学の専門性が発揮される領域である。だが、「ゆえにこれからこうすべき」という大きな方向性は、生物進化の学説から直接導き出すことはできない。生物進化の過程とは、本質的に、大いなる結果論である。まして、高度な意識や判断力、そして文化や伝統を備えたヒトという生物は、長い生物進化の果てに生まれてきた存在でありながら、それまでの進化過程には存在してこなかった前例のない存在である。ヒト以外の生物に関するあれこれの知見から得られることは非常に大きいが、それでは埋まらない問題領域も広大なのだ。

[J0322/230102]