Author: Ryosuke

鈴木涼美『JJとその時代』

副題「女のコは雑誌に何を夢見たのか」、光文社新書、2021年。

序章 甘くて残酷な女性ファッション誌の夢
第1章 JJの時代
第2章 女性誌は生き方を規定する
第3章 JJの誕生と大学のブランド
第4章 女子高生と雑誌
第5章 エビちゃんOLとは何だったのか
第6章 JJの終焉と「自由」な若者たち

1990年以降の時代を中心に、女性雑誌とそれとともにあったそのときどきの若い女性の生き方を辿る。情報が雑誌の変遷と本人の感覚だけという限界はあるにせよ、社会史研究としても成立していると思うし、ひとつの時代史として秀逸。機微に富んだ分析は、著者が当事者だったからこそという面もたしかにあるが、ある種の客観性は担保できているのでは。

とくに序章は、メディア研究を考えている学生にぜひ一度読ませたい文章だし、それだけでなく、この文章を読んで涙する同時代の人がいたとしてもおかしくないと思う。一方では雑誌の時代はもう終わったのだという基本認識がありつつ、他方では、たんに「メディアに踊らされている読者」という想定を強く否定して、当時の読者の主体性に共感を寄せる姿勢がある。

「あえてその〔JJといった〕雑誌が規定してきた価値観に、力強くイエスと答えてきた女性たちの主体性に注目することもできるのではないか、と私は思う。男性にとって(都合の)いい女や高級(そう)に見える女が提示されたことに間違いないが、表紙の梅宮アンナを魅力的に思い、梨花の私物の買い物をチェックして真似した女性たちの選択を、単に社会的圧力や社会的に構築されてきた思い込みによって、本当に100%「そう思わされていた」だけだと一蹴してしまうには、その憧れの気持ちはあまりにキラキラ眩く、フィジカルで生々しいものであった気もするのだ」(20)。

社会学や文化研究、とくにその通俗的バージョンは、「憧れ」というものの本体を見逃しがちなのかもしれないね。

1990年代に全盛を迎えたJJ。「女であることに疑問を抱かず、女としての側面を強調した生き方に迷いがない。そのはっきりとした外的イメージを作っていたのが、おそらく受け継がれ続けたニュートラの流れと多面的なブランド志向だ」(47)。

1970年代まで戻って、「アン・ノン」の話題。斎藤美奈子の解説を紹介して、料理や洋裁といった家事について「『女の義務』が『女の趣味』に代わった」。

1990年代~2000年代の女性たちの行き方を活写した記述は本文に委ねるとして、「女性雑誌以後・SNS時代」の状況や可能性について、著者の見方は両義的。

「女子高生の衰退を経て、より極端なものが避けられ、誰が見てもそれなりに可愛くてそれなりに綺麗なファッションが流行していくのであれば、雑誌は女子高生をジャンルの中に閉じ込める役割よりも、彼女たちの表現を爆発させ、力を伸ばし、大きな意味での若い力の発散の場を与えるものであったようにも思うのだ」(186)

実感としては分かる気がする。社会学的分析としては、これにプラス、三浦展が団塊世代に対して行ったような、人口動態的な観点を加えると、今の若い人たちの立場をいっそう理解できそうだ。

[J0321/221227]

伊豫谷登士翁『グローバリゼーション』

副題「移動から現代を読みとく」、ちくま新書、2021年。

序章 移動という経験
第1部 グローバリゼーションの時代
第2部 移動とは何か
第3部 場所の未来
人の移動をどう考えるか

おもに人の移動としてのグローバリゼーションの経緯や諸テーマを語る。後半は、日本における移民の問題を「再考」する。奇をてらわない記述で教科書的とも言えるが、21世紀以降に更新されたグローバリーゼーション理解として、勉強になるところもあれこれと。

「労働力の再生産は、国家が果たすもっとも重要な経済的機能の一つであり、近代国家は、教育や医療を通じてその役割を担ってきました。失業者のプールとしての産業予備軍は、社会政策などを通じて、さらには福祉国家政策によって、最低限の生存を制度的に保障してきたのです。しかし、国民経済の外部における無尽蔵の労働力プールの利用可能性が開けたことによって、すなわち産業予備軍がグローバル化したことによって、国家による生命の再生産への介入は限定されることになります。これは福祉国家的な社会保障政策の後退を意味します」(123)。いや、重大。同じく・・・・・・「再生産労働に従事する女性移民の増加にもかかわらず、労働力は基本的には市場経済のなかで生産することができません。それは国家と家族というある種の共同性の集団のなかで再生産されるほかないのです。そしてその再生産を保障する制度は、近代国家においてはナショナルな領域のなかで制度化されてきたのであり、現在においてもそうです」(186)。

「総力戦体制期は国民国家と移民との関係が劇的に変化した時代であり、民間人ならびに植民地の人々が戦争へと動員され、きわめて短期間に、しかも世界的な規模で人が移動した、もう一つの移民の時代でした。植民地主義という暴力的な労働力化が、世界戦争の過程で一挙に推し進められたわけです。その意味で総力戦体制は、植民地地域を含めた未曾有の規模での世界的な原蓄過程、すなわち新規の追加的労働力供給確保だったとみることもできるでしょう(C・メイヤスー『家族制共同体の理論』、ジェームズ・C・スコット『ゾミア』)。戦後の占領期は、その原蓄過程で析出された労働力が、独立国家となった発展途上国政府ならびに占領軍の権力によって産業化へと組み込まれた時代でした。戦時に析出された労働力は、戦後に世界的規模で展開する資本のグローバルな労働力編成の前提条件を生み出す基盤となりました」(181)。

[J0320/221226]

岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』

角川文庫、2019年、原著2012年。詩人の伊藤比呂美さんが注目して、映画化もされたエッセイ漫画。伊藤さんが解説で、岡野さんの絵を「感じいい。センスいい。巧い。そしてむちゃくちゃかわいらしい」と評しているけど、たしかに専門の漫画家ではなかったとは思えないほど絵がうまい。

認知症の母の日常生活と「幻覚」、過去の回想などが入り混じった世界を描いて、こうまとめてしまえばずっと同じ内容なのだけど、まったく冗長な感じがしない。たんに考えてつくった作品ではなく、ひとつひとつに、そうした世界にひたった長い時間が感じられるからだ。

ほとんど取り上げない漫画をここで取り上げたのは、「文庫特別付録」の漫画のひとつが凄まじかったから。岩松了さんと会ったら、著者自身とよく似ていた、というところから凄い幻想が展開。心温まる介護漫画、と言えないこともないが、それには尽きない、濃密な幻想作品であることがよく分かる。

[J0319/221225]