Category: Japanese Articles

ポール・コナトン『社会はいかに記憶するか』

副題「個人と社会の関係」、芦刈美紀子訳、新曜社、2011年、原著1989年。

第1章 社会の記憶
1 回想の作用
2 フランス革命 王の公開処刑/フランス革命 衣服のスタイル
3 歴史の再構築/ライフ・ヒストリー
4 個人の記憶/認知の記憶/習慣の記憶
5 精神分析/実験心理学/ウィンチ 習慣と規則/サーリンズ 衣服の「言語」/社会的慣習の記憶
6 アルヴァックス 集合的記憶

第2章 記念式典
1 ヒトラーと記念式典
2 世界宗教と儀礼
3 儀礼とシンボル表象/儀礼と集合表象/儀礼と歴史
4 儀礼と神話/ギリシャ神話/儀礼の言語
5 忘却・模倣・反復/再現のレトリック 暦/言葉/身振り

第3章 身体の実践
1 具体化と表記/姿勢/アルファベット/映画
2 身体の技巧・礼儀作法・儀式/ジェスチャー/テーブルマナー/貴族
3 プルースト・サン=ルーのふるまい/サドナウ ジャズピアノ/習慣とは
4 解釈学/ローマ法/聖書/パフォーマンス

集合的記憶の問題を取りあげて、とくに「記念式典」の重要性を説くが、その際に、従来は見逃されてきたという、身体的な記憶としての習慣の役割を重視するのが著者の立場。

記憶の主張について、次の三類型を立てる。(1)個人の記憶の主張、(2)認知の記憶の主張、(3)習慣の記憶の主張。このうち、習慣の記憶は、現代の規約主義でも精神分析でも無視されてきたとして、ピーター・ウィンチとマーシャル・サーリンズの所論をその展開例として批判する。
「習慣は、規則とその適用を分離する研究の形式において明白に排除され、コードとその執行を分離する研究の様式において暗黙のうちに排除される。〔…だが〕言語の構造から演者による実際の言語の使用に注意を向けるやいなや、言語についての単なる知識、すなわち、規則やコードの知識だけでは、適用と執行という類似語に包括されてきた実践を完璧にこなすことは不可能だとわかる….」(59-60)

儀礼は遂行的言語であり、形式化された言語である。「式典がその参加者にとって有効で、説得力をもつためには、参加者が単にパフォーマンスを成し遂げる認知的能力をもつだけでなく、そのパフォーマンスを習慣とする必要がある」(126)。「すべての集団において、最も保存したいと願望される価値や分類は身体の自動性に委ねられる」(183)。

「伝統の発明を主張するアプローチの偏りは、儀礼の遂行性を考えることができない結果である。そのため、儀礼の発明の問題と、持続性の問題の区別が曖昧にされてしまう。歴史主義者はその儀礼の創造者の意図をじゅうぶん吟味することを求める。……それは儀礼を理解するために十分でないだけではなく、必要な条件でさえないことがしばしばである。ここでは、儀礼を「読む」という概念があまりにも文字通りに受け入れられていることを主張したい」(185-186)。

 所感。集合的な記憶の問題について、記念式典のような儀礼が重要であること、しかもそれが遂行的な性質のものである点については異論はない。ただし、儀礼が一種の遂行的な言語であり、たしかに習慣的記憶との結びつきが強いとしても、そのことの中心に「身体的な性格」を認めることが可能がどうか。筆者は否定するであろうが、身体性を過度に強調することで、集合的記憶の基盤がふたたび「個人」へと帰せられているような気がする。思考における習慣というものもあるわけだし、無意識的な――集合意識的な、と言うこともできるだろう――「意識せざる習慣」のすべてが身体に属するわけでもあるまい。身体はあくまで表現の媒体である。

 さて、筆者は「記念式典」の意義を強調するが、それは近代という文脈においてであるのか、あるいは社会集団一般についてであるのか。よく精読したわけではないので僕の中でペンディングにしたままだが、備忘でメモっておく。以下の抜き書きも関連するかな。
「モダニティという状況下では、反復の祝典は単に代償という戦略でしかありえない。というのは、モダニティという原則そのものが、人生を祝福された反復の構造ととらえる考えを否定するからである。…資本の蓄積に不可欠なのは、創られた環境を、繰り返し意図的に破壊することである。…資本の論理はいまや、人生を模範の反復の構造ととらえる想像力を否定しようとするのである」(114-115)。

その他の抜き書き。

ルイ16世の裁判と処刑について。「この王殺しは矛盾語法の要素をもつ。すべての王室の葬儀を終結させるために、ルイ十六世には王としての葬儀が与えられなければならなかった」(14)。「ある制度を廃止するための儀礼は、その制度をそれまで強化してきた側の儀礼を、逆の意味合いで想い起こさせて初めて意味をなす。王政の儀礼的な終焉とは、否定したものに対する恨みを晴らし、決着をつけることである。王朝原理の否定、この場合はその否定を儀礼的に演ずることになるが、それは依然として滅ぼされた王朝についての説明であり、その回想である」(15)。

「全体主義国家の国民の精神的隷属は、国民の記憶が剥奪された時から始まるのである。巨大な権力が小国の愛国心を奪い取ろうとするとき、組織化された忘却という方法が用いられる」(24)。

[J0268/220508]

天野勝則『アユと江の川』

副題「川漁師の語り」、中国新聞社、1996年。

第一章 少年時代
第二章 川漁師への道
第三章 江の川のアユ
第四章 天野式漁法
第五章 鮎の三昧
第六章 ツガニ漁
第七章 川漁師の叫ぶ
第八章 おわりに
資料編

今では、江の川・最後の川漁師とも言われているらしい著者。川漁の手法や歴史、江の川の豊かさやその危機等々と、読み所は多い。また著者は、一度自衛隊や会社勤めをしたあと、Uターンをして川漁をはじめた方とのことで、そんな背景もあってか、探究心と創意工夫に富んだ人のよう。そうした人だから分かる、自然を相手にした仕事の魅力が伝わってくる。

要約を許さない種類の本だけれども、著者が感じてきたダムの影響についてだけ、すこしメモ。まず、ダムの利害を巡って、上流と下流など、地区同士の反目が生まれた。漁獲量自体が落ちているところで、「ダムのせいで」という見方が、その反目を強める。水量の減少がアユの産卵に影響。また、土手沿いに整備された道路のせいで、夜の川面が明るくなり、これもアユの産卵を妨げる。自然の増水は川底の掃除という意味を持つが、ダムのせいでだらだらと濁り水が流れる。自然の濾過器であるはずの砂や小石も、ダムが堰き止めてしまう。しかも、ダムは底水から川に流すが、底水は水温が低く酸素も少ない「死に水」。このほか、川の生命力を削る要素は、生活用水や山の掘削をはじめ、枚挙に暇がない。

著者がこうした川の影響をよく感じているのは、川や魚をよく見つめ、それとやりとりを続けてきたからであり、また、「川はぜったいよみがえる」というポジティブな確信を持っているからにちがいない。しかしこの本が出てから20数年、今の著者が見る江の川はどんなものだろうか。

[J0267/220505]

Robert E. Goss, Dennis Klass, Dead But Not Lost

Robert E. Goss, Dennis Klass, Dead But Not Lost: Grief narratives in Religious Traditions, Walnut Creek: Altamira Press, 2005.

1 Introduction
2 The psychology of Japanese ancestor rituals
3 Americanizing a Buddhist grief narrative
4 Continuing bonds with teachers and founders
5 The politics and policing of grief
6 Grief and continuing bonds in contemporary culture

「絆の継続」モデル主唱者のデニス・クラスさんの共著ということで、もっとケアっぽい内容を想像していたが、良い意味で裏切られた。歴史的・批判的観点もじゅうぶんに盛り込まれている。前書きには、著者らはウィルフレッド・キャントウェル・スミスに学んだとのことが書かれている。なるほど、「絆の継続」というひとつの観点から比較宗教学をするというのは有効だなと。

2 The Psychology of Japanese Ancestor Rituals

「絆の継続」モデルで必ず引きあいに出される日本の祖先崇拝、たいていは通りいっぺんの記述で終わっているが、ここでの記述はかなり丁寧。なるほど、トニーさんの「甘え」原理評価も、この論考が背景になっているのかもしれないな。儀礼の重要性や、幽霊表象、仏教の家族システムへの適応といった論点への言及もある。

3 Americanizing a Buddhist Grief Narrative

 アメリカに輸入されたチベット仏教のサークル、そこにおける「絆の継続」の研究。インタビュー調査に基づきながら、アメリカ的価値観と仏教思想の相互作用の事例を追究して、単独の論考として十分におもしろい。翻訳する価値もあると思う。ホスピス実践との関わりも重要視される。

4 Continuing Bonds with Teachers and Founders

いわゆる教祖崇拝を「絆の継続」論の角度から論じる。

5 The Politics and Policing of Grief

死者との関係に関する教説を主題として、その社会・政治的動態を比較宗教的に論じる。取りあげる事例は、20世紀社会主義下の中国、18~20世紀のアラブ・イスラーム、中世西ヨーロッパのキリスト教、紀元前2世紀のインド仏教、紀元前7世紀のイスラエル。「宗教」を直接に論じようとすると、その枠組みが問題になってしまうが、死者との関係といった限定された具体的焦点を設けることで議論を明確にできるというやり方の好例になりうるのでは。

6 Grief and continuing bonds in contemporary culture

最終章は、「絆の継続」をめぐる現代世界の価値観の特徴を記述する。本書では、宗教と文化の変動期である今日、すなわち21世紀世界の特徴を、(1)コミュニケーションと旅行のテクノロジーの発展と、(2)消費者資本主義という二点に認めて、分析を進める。ここでも、具体的な事象を離れずに考察を進めているのが重要で、ホスピス制度、子どもを亡くした親の自助グループ、エイズ・キルトが取りあげられ、それらの特徴と可能性とが語られる。

良くも悪くも深掘りをしすぎず、かといって事象に臨む姿勢において拙速でもなく、バランスの取れたアプローチの本として、自分にはとても参考になる。

[J0266/220505]