Category: Japanese Articles

高田明典『現代思想のコミュニケーション的転回』

筑摩選書、2011年。超越論的転回、言語的転回、解釈学的転回、コミュニケーション的転回という四つの転回のもとに整理して、現代思想の流れに明瞭な見通しをつける。アーペルはじめ、あれこれも読まなくてはと思わせられる。

第1章 全体の見取り図
第2章 私たちが直面している問題はどのようなものか
第3章 コミュニケーション的転回の哲学的基礎
第4章 現代思想のコミュニケーション的転回
第5章 コミュニケーション的転回の意義
第6章 現代コミュニケーション論概観
第7章 コミュニケーション的転回の問題点
付録 四つの転回を読むためのブックガイド

基本的に、著者の主張は明快で、主旨には納得ができる。細かい疑問。超越論的転回と言語的転回については、自分もそのように整理してきたし、分かる(ただし、名称は認識論的転回と言語論的転回としてきたが)。残りの解釈学的転回と、コミュニケーション的転回は、ちょっと小刻みすぎないかという疑念。

著者によれば、
超越論的転回:存在・モノ・私 → 認識・モノ・私
言語的転回:認識・モノ・私 → 認識・言葉・私
解釈学的転回: 認識・言葉・私 → 認識・言葉・あなた
コミュニケーション的転回:認識・言葉・あなた → 認識・言葉・みんな
・・・・・・とな。

でも、「言語」に注目する時点でその社会的次元や主体の相対化は含まれているわけで、解釈学的「転回」やコミュニケーション的「転回」と、「転回」というのは良すぎではないか。言語論的転回の「展開」とみなすべきではないかと思う。

また、第六章「現代コミュニケーション論概説」は、コミニュケーション論の諸学説をひろく紹介していてとてもありがたい。が、これがコミュニケーション的転回の成果だとすれば、ちょっと些末かもしれない。巻末のブックガイドも親切。著者の高田さんは、もったいぶって出し惜しみをしない人のようだ。

[J0671/260621]

清水俊史『ブッダという男』

副題「初期仏典を読みとく」、ちくま新書、2023年。現代の仏教者たちは、現代的な価値観のもとにブッダを解釈し、神格化してきてしまっているのではないかという問題意識から、初期仏典に即してブッダを記述しようとする。ブッダに関する通説を次々に斥けて、すごい勇気と思いながら読んでいたが、「あとがき」をみるとやはり相当に苦労されてきたらしい。聖書学への言及もあるが、教祖の解釈をめぐって、宗教の一般的動態のひとつを描きだしている書でもある。

第1部 ブッダを知る方法
1 ブッダとは何者だったのか
2  初期仏典をどう読むか
第2部 ブッダを疑う
3 ブッダは平和主義者だったのか
4 ブッダは業と輪廻を否定したのか
5 ブッダは階級差別を否定したのか
6 ブッダは男女平等を主張したのか
7 ブッダという男をどう見るか
第3部 ブッダの先駆性
8 仏教誕生の思想背景
9 六師外道とブッダ
10 ブッダの宇宙
11 無我の発見
12 縁起の発見
終章 ブッダという男

「現代の仏教者たちもまた、「歴史のブッダ」を構想しようとするなかで、近現代的な価値観と合致するように、「平和主義者だった」、「業と輪廻を否定した」、「階級差別を否定した」、「男女平等論者だった」と神格化してしまっているのである。ここで我々は、次の事実に気がつく。すなわち、古代から現代にいたるまで、「歴史のブッダ」ではなく、「神話のブッダ」こそが人々から信仰され、歴史に影響を与えてきたということである。・・・・・・逆説的だが、中村元など近現代の一部の研究者が喧伝した〔「迷信」をぬぐいさるなどした〕「歴史のブッダ」は、実は歴史上一度も存在しなかった「神話のブッダ」だったということである」(112)。

「およそ2500年前に生きたブッダという男は、輪廻を当然の前提として受け入れており、この世の貧富や差別、そして理不尽な死の原因は過去世の業(カルマ)であると考えていた。確かにブッダは、当時差別されていた隷民や女性にも出家を認め、彼らにも悟りを得る可能性があると主張した。だが、この主張は、当時のインド思想において決して先駆的なものではなく、類似した考え方がすでに起こっていた」(108-109)。
 なお、仏教が説いた出家や悟りの平等は、「俗の側ではなく聖の側での平等」と言うべきものであったという(90)。

さまざまな論者の解釈やその歴史にも触れた「参考文献」も価値が高い。そういえば、親鸞の「現代的解釈」を扱った本を数冊、ずっと積ん読にしているなあ。

[J0670/260608]

M.アルヴァックス『記憶の社会的枠組み』

鈴木智之訳、青弓社、2018年。訳者あとがきによれば、原著の初版は1925年。

前言
第1章 夢とイメージ記憶
第2章 言語と記憶
第3章 過去の再構成
第4章 思い出の位置づけ
第5章 家族の集合的記憶
第6章 宗教の集合的記憶
第7章 社会階級とその伝統
結論
訳者あとがき――鈴木智之

■ 前言
「集合的枠組みはまさに、集合的記憶が過去のイメージを再構成するために用いる道具であり、そのイメージはそれぞれの時代にその社会の支配的思考に適合する」(10)。

■ 第1章 夢とイメージ記憶
 すでに死んでいると知っている人が現れる夢への言及(24)。夢と知りつつの現実感。また、ベルクソンの見方と異なり、思い出と夢とは相容れないもの。夢に欠けているもの、「目覚めているときの空間的・時間的枠組みの断片を強く結び付けていうるような凝集力に欠けている」(79)。このへんは、シュッツを思わせるような議論(R)。

■ 第4章 思い出の位置づけ
「たしかに個々人は、個別の気質や生活環境に応じて、他の誰でもない記憶を有している。だがやはり、その記憶も集団の記憶の一部であり、その一局面としてある。なぜなら、表向きにはそれがもっぱら自分一人に関わるように見える場合であっても、すべての印象と事実について持続的な思い出をもち続けるのは、それについて反省的思考をめぐらせたとき、すなわち社会環境からもたらされる思考にそれを結び付けたときに限られるからである。実際に、推論をめぐらせることなく、みずからの過去の出来事を考えることはできない。そして、推論するということは、自分の見方と周囲の人々の見方とを、一つの観念の体系のなかに結び合わせるということなおである。それは、自分の身に起こることのなかに、社会的思考がもつ意味と射程とを常に私たちに思い起こさせるような事実の個別的適用を見るということである。このようにして、集合的記憶の枠組みは、私たちの最も内面的な思い出までをも囲い込み、相互に結び付けている。集団がその思い出の存在に気がついている必要はない」(194-195)。

■ 第6章 宗教の集合的記憶
この章は何度も読む価値がありそう。
新しい宗教に駆逐されたようにみえる古い信仰の「再生や反撃」。「社会の外側、あるいは社会の内側であっても、確立された宗教制度の作用にはほとんど従属していない領域に、こうした古い信仰が何らかの形で存続しているのである」(244)。「社会は、まさに発展のときにこそ、過去の振り返るのである」(247)。古い信仰の存続というものもあるし、その宗教の最初期の姿の再現というものもある。

その他の社会的記憶からは切り離される「宗教的記憶」。「他の集団の記憶は互いに浸透し合い、互いに調和する傾向を示すのに対して、宗教集団の記憶はその後一切変わらない形で固定されることを求め、その他の記憶を支配的記憶に適合させたり、その他の記憶を系統的に無視したりして、他の記憶の不安定さに対してみずからの恒常性を対置させ、他の記憶を劣位に位置づけようとする」(252)。

宗教のなかの二つの流れ、教義派と神秘派。〔宗教的記憶に対する態度の2類型として。それぞれの働き。〕キリスト教史のなかに、キリスト教における教会と神秘主義者たちの葛藤を含む動態をアルヴァックスはみる。「宗教的教義とは、教会の集合的記憶である」(276)。儀礼や典礼の意味。聖典もまたこの意味で、儀礼的な性格を有する。

「宗教的記憶はその時代の社会からみずからを切り離そうと努めながら、やはり、すべての集合的記憶と同一の法則に従っている。すなわちそれは、過去をそのまま保持するのではなく、過去が残した物質的痕跡や儀礼や聖典や伝統の助けを借り、同時に最近の心理的・社会的与件の助けを借りることによって、つまりは現在との関わりのなかで、過去を再構成するのである」(284)。

■ 第7章 社会階級とその伝統
旧秩序における貴族を支えていた社会的基盤とその衰退。記憶の社会的枠組みとその変容。(アルヴァックスはそうは表現していないが)ある種の正統化の問題。

■ 結論
じつはこの結論、本書のダイジェスト+αになっている。要点をつかみにくい本だけに役立つ。
「想起なき知覚は存在しない」(360)。
「孤立した個人のもとで、思い出の混入を一切伴わないような、過去にも現在にも社会との関わりを一切もたないような直観的知覚を想像することはできる。しかし、逆に、人々が対象物をめぐって相互に理解し合うことを可能にする言葉や観念の記憶が伴わないような集合的知覚は存在しない。そうした記憶だけが集合的知覚を可能にするからである。したがって、対象物についての純粋に外在的な観察は存在しないことになる」(360)。

「私たちが目覚めているときには、時間や空間、物理的・社会的出来事の秩序は、自分の集団の人々によって認められ、固定されているものであり、それは私たちに押し付けられている。そこから、私たちが夢に見ていたものと対置される「現実の感覚」が生じる。しかしその感覚は、私たちの記憶の作用の出発点である。人は、自分の興味を引く過去の出来事の位置を、集合的記憶の枠組みのなかに再発見することを条件としてはじめて、過去を想起することができる」(364-365)。
「ひとつの事実、すなわち、夢のなかでは複雑な出来事や場面の思い出を思い起こすことができないという事実は、個人的記憶が立脚する集合的記憶の枠組みが存在することを明らかにしている」(367)。「社会によって、個人は集合的思考に参加することになる」(367)。

 記憶ないし認識のはたらきの根拠が個人にではなく、社会の側に属しているという発想はデュルケーム派のそれであり、デュルケーム的に解釈されたカントのカテゴリー論であり、さらにはルソーの一般意志論にまで遡ることができるだろう。そのように押さえるならば、アルヴァックスの論は、ベルクソンに対するルソー的立場からの反論だということにもなろうか。

「集団の視点に立ってみることにしよう。その場合、思い出がよみがえるとすれば、それは社会がそのときどきに思い出を再生させるのに必要な手段を準備するからだと言えるだろう。そしておそらく私たちは、社会の思考のなかにある二種類の活動を識別することになる。その一つは記憶、すなわち、私たちにとっての基準点として役立ち、もっぱら過去に関連づけられるさまざまな概念からなる枠組みである。もう一つは、合理的活動であり、これは、社会が現状において存在している条件のなかに、すなわち現在のなかにその出発点を置いている。このとき、記憶はこの理性の統制のもとでしか機能しえないだろう。ある社会がみずからの伝統を放棄したり、修正したりするのは、合理的要求を満たすためであり、まさにそのような要求が現れる時点においてではないだろうか」(378)。

「要するに、社会的信念は、その起源がどのようなものであるにせよ、二重の性格を有しているものである。社会的信念は、伝統あるいは思い出であり、同時に、現在の知識から生じた観念であり取り決めでもある」(384)。つまり、伝統と合理的思考のせめぎ合いとしての社会。ある種の知識社会学だね。

「人物や歴史的出来事は、社会の記憶のなかに入り込む否や、ある情報、概念、象徴へと置き換えられる。それは意味を受け取る。そして、社会の観念体系の一要素になる。このようにして、伝統と現時点での観念とが調和しうるということが説明される。つまり、実際のところ、現時点での観念は同時に伝統なのであり、それぞれは同時に、また同じ資格で、言うなればそこにみずからが生命力を得た、過去もしくは最近の社会生活をよりどころにしているのである」(384)。
「したがって、社会の思考と本質的に記憶であり、その内容のすべては集合的思い出から作られたものでしかない。ただし、さまざまな思い出のなかでも、その時点の枠組みのうえに作動する社会が再構成しうるものだけが、その一つひとつだけが、存続していくのである」(385)。
 以上は、本書の結語。この見方の射程は広い。たとえば、「創られた伝統」論を批判して、すべての伝統が創られたものなのは当然という言い方があるが、アルヴァックスの議論はこの問題圏をより一般的な見地から先取りしている。

[J0669/260602]