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リアド・サトゥフ『未来のアラブ人』

副題「中東の子ども時代(1978-1984)」、鵜野孝紀訳、花伝社、2019年、原著2014年。今回はマンガ本、シリア人の父とフランス人の母をもつ著者が、リビアやシリアで過ごした幼年期の体験をマンガにしたもの。子どもの目を通して、シリアやリビアの状況や、当時の時代が伝わってくる。子ども目線なので、アラブ社会の女性たちの日常生活をかいまみることができるのも貴重。

なかなか残酷で「野蛮」な描写も少なくないが、なんだろう、なぜかどこか懐かしく感じる要素もある。たとえば今の若い人が読んだら、懐かしさなど皆無で、まったく異世界のことだと感じるのだろうか。そのへん、どこまで読者側が生きた時代や経験に依存しているかは、分からない。

匂いの描写が多いのも、子ども時代の記憶を忠実に描いているからだろう。シリアに越してすぐ、屋上から村を眺めるシーンが好きだ。レジ袋が空に舞っていて、茫漠とした景色。いつか自分が見た景色と錯覚しそうだ、といったら言いすぎだろうか。

[J0234/220216]

ロバート・スミス『来栖』

河村能夫・久力文夫訳、ミネルヴァ書房、1982年、英語原著は1978年。1951年から1952年、香川県塩江町来栖を調査した人類学者スミスが、1975年に再調査に当地を訪れてその間の社会変化も描きだす。

最近ようやく読んだ『日本の祖先崇拝』に感服した流れで手に取ったが、それとはまたぜんぜんちがった種類の労作。8章構成の本なのだが、第8章でけっこうなどんでんがえし――工場誘致をめぐる地域内の歴史的「大事件」の話――があって、1~7章と8章とで二部編成のようになっている。

訳者解説に、エンブリー『須恵村』を評して「日本の農村社会学者が自明のこととして省略した日常生活の子細を文化人類学の手法で克明に記述している」ことに意義があると述べているが、その評はまさにスミスのこの本にも当てはまる。『須恵村』にはない独自の価値があるのは、高度成長という、日本社会が経験したもっともラディカルな変化の一事例を、ていねいに記述している点である。香川や来栖、あるいは農村の研究という以上に、高度成長下における社会生活の変貌を活写した本として読むといいように思う。

模範的エスノグラフィーであるこの書の性質を考慮し、以下、書評にかえて章構成・節構成を挙げておきたい。その方がこの本の内容がよく分かるはずだ。

序章
第1章 塩江町
 排泄物貯蔵施設
 川北住宅開発
 教育
 福祉
 レクリエーション施設
第2章 来栖の人口と家族
 世帯
 来栖の5家族
第3章 衰退する農業
 全国の農業事情
 香川県の農業事情
 1951年の安原村の農業
 1975年の塩江街の農業
 土地
 農業の機械化
第4章 生計の途
 生計としての農業
 農外就業
 地場産業
 要約
第5章 変貌するむらの生活
 来栖の住宅
 車時代の到来
 葬式と法事
 結び
第6章 世代
第7章 地域社会としての集落
 同行から自治会へ
 同行入り
 誕生
 見立て
 結婚式
 葬式
 氏神の春祭と秋祭
 八幡神社の秋祭りの頭屋
 道作り
 婦人会
 来栖用水組合
第8章 集落の連帯性の後退
エピローグ

第8章では、地域を一度は分断し、その後も傷痕を残した事件の顛末が描かれる。エピローグでは、そんな中開かれた、著者のスミスさんの「さよならパーティ」の、美しい時間が描かれている。分断以前・高度成長以前の記憶が、記憶としてはまだしっかりと生きている頃の時間。

[J0233/220215]

リチャード・パリー『津波の霊たち』

濱野大道訳、ハヤカワノンフィクション文庫、2021年、英語原著は2017年。

プロローグ 固体化した気体
第1部 波の下の学校
第2部 捜索の範囲
第3部 大川小学校で何があったのか
第4部 見えない魔物
第5部 波羅僧羯諦―彼岸に往ける者よ

読むのがいろんな意味できつい、厳しい、気軽には読めない。この震災については取材する機会もあったのかもしれないが、やはり自分には無理だったと改めて分かる。彼の場合はジャーナリストとしての使命感なのだろうか、ここまで徹底して取材をすれば、確かに意味が出てくるように思う。

東日本大震災関係のルポの中では、一番よく出来ているように思う。震災の体験は地域それぞれ、人それぞれでしかない。石巻でも浪江でも、一部の話だけでは一部の話にすぎない。この本の焦点は大川小学校というきわめて特殊な事件の関係者に当てられているが、その記述を積み重ねるなかで、この震災全体に通じる事情も同時に辿られているように思う。たとえば、「被災者」間での苦悩や共感や遠慮、そして格差と断絶といったこと。それが可能になっているのは、著者がつねに、日本文化や日本社会の特徴に目を向けていることもあるだろうし、それ以上に、人々の経験のディティールを、物語化しすぎずに記述しているからだろう。これこそジャーナリズムの意義かもしれない。

この本のもうひとつの焦点は「心霊現象」にある。ただし、著者はあくまで、それだけを切り出すのではなく、人々の被災経験全体の一部として記している。自分のもともとの気持ちでもあるが、この記述全体を読んでいると改めて、これだけの悲劇的な体験であれば、多少の心霊現象は起きても当然という感覚になる。拝み屋的なものや宗教一般を全肯定するわけではないが、これだけの出来事、これだけの体験を心理カウンセリングが受けとめられるだろうか。

自分は、2008年まで17年間東北に暮らして、もちろん同時代人としてこの出来事を経験した人間であるが、一方では2011年には遠隔地にいて、その後の「復興」過程に「当事者」として関わったわけでもない。この震災をこういう立場で経験した/しなかったという事実の意味を、繰りかえし考える。

[J0232/220213]