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Continuing Bonds

Dennis Klass, Phyllis R. Silverman, Steven Nickman, Eds., Continuing Bonds, Taylor & Francis, 1996.

死別悲嘆の領域で「絆の継続モデル」を提示したエポック・メイキングな論文集。改めて目を通してみたが、なるほど、視点についてよく狙いが絞られていると同時に、一本一本は短い論考を集めて、幅広い対象に目配せした論集になっている。論文の集め方自体が興味ぶかい考察の対象になりそうなので、そのへんをこのブログに書いてみようかなと思った次第。

この論集は、書き下ろしの論文の他に、既発表の論文からも選ばれていて、実は「絆の継続モデル」の発想はそれなりに昔からあることもうかがわれる。たとえば、第7章「死んだ両親を思い出す」(Betty Buchsbaum)は1987年、第9章「寡婦と夫の神聖化」(Helena Lopata)は1981年に発表された論文である。

第5~8章は、親と死別した子どもが主題。発達心理学との関連で、研究が進んでいると推察。

  • 第5章「子どもにおける死んだ両親の構成」(Silverman & Nickman)
  • 第6章「死別した子どもにおける個人との関係の変化」(Normand, Silverman, and Nickman)
  • 第7章「死んだ両親を思い出す」(Betty Buchsbaum)
  • 第8章「関係と遺されたもの」(Kirsten Tyson-Rawson)

第9~11章は、伴侶との死別。再婚という主題は、日本だとなかなか前面に出てきにくいかも。

  • 第9章「寡婦と夫の神聖化」(Helena Lopata)
  • 第10章「寡夫・寡夫と再婚」(M. Moss & S. Moss)
  • 第11章「伴侶の死と生の思い出」(Roberta Conant)

第12~13章は、子どもを失った親。

  • 第12章「悲嘆解決期の両親の心的・社会的世界における夭折の子」(Dennis Klass)
  • 第13章「傷ついた家族」(Simon Rubin)

第14章は、きょうだいとの死別。

  • 第14章「青年期におけるきょうだいの死別理論の基本構成」(Hogan& DeSantis)

第15~16章は、養子になった子どもにおける実親の死の問題。これも日本だと、スポットが当てられにくい領域。

  • 第15章「養子における遡及的な喪失」(Steven Nickman)
  • 第16章「養子女性における悲嘆と誕生理由幻想」(Susan Miller-Havens)

そのほか、目立つところでは、第4章「東洋文化における悲嘆」(Dennis Klass)は日本の伝統文化を扱って有名な論文であり、第19章「ポスト・ナチ世代における認定のジレンマ」(Lora Tessman)は、親がナチに関わっていたことに関する子どものジレンマを扱っている。災害や事故による死別について、それを主題として扱っている論考がないのも、特徴といえば特徴か。

なお、「絆の継続モデル」の理解については下記論文が便利・有益。
> 鷹田佳典「故人との絆はいかにして継続されるのか」(『年報社会学論集』19号、2006年)

死別悲嘆の問題全体に関しては、マーガレット・シュトレーベほか編著『死別体験』(誠信書房、2014年)がもっとも網羅的な概説書かなと。

[J0231/220210]

『RE-END 死から問うテクノロジーと社会』

塚田有那・高橋ミレイ編著、ビー・エヌ・エヌ、2021年。

序章
 【マンガ】「遠野物語」より 五十嵐大介
 はじめに 塚田有那

1章 RE-END 死と生の境界線を引き直す
 他者の死生を喚起するテクノロジーに向けて  ドミニク・チェン
 21世紀の「死者の書」  畑中章宏
 生と死をふくむ風景 石倉敏明
 【絵】すべてここから生まれここへ還って行く 諸星大二郎

2章 死の軌跡   わたしたちは死とどう対峙しているのか
 葬儀のゆくえ 岡本亮輔
 看護と宗教をつなぐスピリチュアルケアの実践 玉置妙憂
 死者をおくる「おくりびと」 木村光希

3章 死後労働 AIが故人を再現する時代へ
 「死後労働」が始まる時代 富永勇亮・川村真司
 AIは作家を復活させることができるのか? 栗原聡
 【マンガ】ようこそ! わたしの葬儀へ! うめ

4章 死後のアイデンティティと権利 個人データは誰のものか
 遺されるデータとアイデンティティ 折田明子
 死者のデータと法制度 水野祐
 パーソナルデータは社会の資源になりえるか? 庄司昌彦
 ゲーム世界における〈他者〉とAI 橋迫瑞穂
 【マンガ】デジタルヘヴン  ハミ山クリニカ+宮本道人

5章 意思決定 医療の現場に生じる多様な選択
 科学が変容させる死生観と倫理の境界 小門穂
 死に直面する医療と意思決定のゆくえ 尾藤誠司

終章 死とテクノロジーのゆくえ
 【対談】21世紀、死者はどこへ向かうのか しりあがり寿× 畑中章宏
 【マンガ】「国が富士山のふもとに天国つくるってよ。」 しりあがり寿
 【対談】死を超越するライフログ  宇川直宏× 山川道子

ポップなタイトル、ポップな装丁の本で、半信半疑で手に取ってみたが、現代社会における死をめぐる諸問題を幅広く概観した本になっている。サブカル界のヒーローの作品や発言はもちろん興味を惹くし、それと同時に、新しい試みを立ち上げている実践家たちや、各主題を専門とする気鋭の研究者たちによる原稿が並んでいる。「意欲的」という表現がまっさきに浮かぶ、生き生きとした一冊。

この本の母体となったのが、このサイトに紹介されている活動なのかな。
>HITE-Media

これを書いている今、辿りついたばかりで見てはいないけど、こちらもリンクを貼っておきます。
> YouTube チャンネル Media Hite

[J0230/220208]

佐野眞一『てっぺん野郎』

講談社、2003年。『誰も書けなかった石原慎太郎』というタイトルで文庫化もされている模様。

第1部 海の都の物語
第2部 早すぎた太陽
第3部 「てっぺん」への疾走

石原慎太郎氏が亡くなった、昨日その報を聞いて読む。記憶を失っているが、もしかしたら再読かもしれない。2003年と言えば、300万超え、70%という圧倒的な票を得て、都知事への二選を決めた頃。石原慎太郎という人の不思議な立ち位置は、きっと時代が過ぎれば分からなくなっていくだろうから、そこを追究したこのような評伝の存在は貴重。

「慎太郎人気はよく空気のようなものだといわれる。しかし、大衆は人物そのものというより、その人物の背景にある空気にこそ反応する」(41)。こうして著者佐野眞一は、父親の生まれ育ちをはじめとする慎太郎のルーツを徹底的に辿っていく。

石原慎太郎や裕次郎と言えば、『太陽の季節』以来、ハイソな坊ちゃん的なイメージを持たれがちだが、けして貴族的な家庭の子どもではないという。父親の潔は、山下汽船という戦時下の新興企業のやり手・名物社員だったようだ。若い頃に社内でも問題を起こして樺太に飛ばされるが、タコ部屋の人足を使いこなしてのしあがるような人物。この父親からして、荒々しさとダンディズムを兼ね備えた人であったらしい。

兄弟は神戸に生まれ、小樽で幼少期を過ごし、1943年、慎太郎が10歳、裕次郎が8歳のときに湘南・逗子市へと移り住む。1951年、湘南高校時代に父親潔が急死すると、石原家の経済は傾いた。そこで一発あてることに成功したのが「太陽の季節」であった。世代の人には周知のことなのかもしれないが、「太陽の季節」の映画化が進められ、そのときに映画会社の事情で主演を務められなかった慎太郎の代役として抜擢されたのが、裕次郎のデビューだったという。一橋の学生時代に発表した「太陽の季節」がノミネートされた文學界新人賞選考のとき、大きく評価が分かれたこの小説を読んだ武田泰淳は、「彼は小説家より大実業家になるかも知れない」と評したとのこと、凄い。実業家と政治家のちがいがあるにしてもだ。

「「太陽の季節」の小道具として効果的に使われた人も羨む湘南での豪奢な生活とヨットは、潔が慎太郎に残してくれた最大の遺産だった。そして潔の急死による弟・裕次郎の放蕩生活は、いわば潔の負の遺産だった。慎太郎は、潔の死後、破綻に瀕した石原家の財政事情を何とか立て直すべく、その潔の遺産を二つながら活用して「太陽の季節」を世に問うた。そして、ありあまるほどの名声とともに、悲願だった一攫千金の夢を実現した」(251)

子どもに対する慎太郎の溺愛は、子にヨットを買い与えた潔譲りのものらしい。

この評伝のポイントポイントで出てくるのは、宗教、とりわけ世界救世教との深い関わり。父母とも世界救世教に傾倒し、慎太郎自身もその繋がりで若くして妻・典子を娶ったが、裕次郎だけは距離を取っていたようだ。後年では、小谷喜美の霊友会との関係を深めて、「慎太郎が参院選で獲得した三百万票のうち、百万票以上は霊友会関係の票ではなかったか」という証言まで紹介されている。なお本書では、慎太郎本人ではないが、彼の腹心で東京副知事にもなった浜渦武夫が、密かに統一教会と関係を持っていたことにも触れている。

本書後半は、慎太郎の歩みを辿りながら、彼の特異なパーソナリティに切り込んでいる。たしかに、三島由紀夫や田中角栄などとも対照してみたくなる、石原慎太郎という人物。佐野は、「太陽の季節」が文学の主流にはならなかったことを引きあいに出しつつ、2003年当時「総理にしたい男No.1」ともてはやされている慎太郎も、結局は総理にはなれないだろうと匂わせて本書を締める。今になってみれば、その予想は当たったことになる。

僕にとって、佐野が描いた慎太郎の両面性は、東日本大震災のときに証明されている。まったく許しがたい「天罰」発言をした一方で、風評被害で受け入れ先に窮していた岩手県などの震災がれきを、都知事としてまっさきに受け入れてくれたことは忘れられない。親交のあった谷川俊太郎による印象的な慎太郎評、「価値観は全然違いますが、あの人柄がすきなんです。あいつは危険だといっている人もいっぱいいますが、僕はみんなが思うほど危険だとは思っていないんです。ただ、『太陽の季節』以来一貫してある、弱い者への同情とか共感があまり感じられない点だけは、政治家だけに、僕も多少ひっかかります」(341)。

なお、最近、YouTubeなどで、「石原慎太郎が忘れ得ぬ東京裁判で味わった屈辱とは」みたいな広告が流れてくる。本書でも、中学生の慎太郎が東京裁判を傍聴したことが、「とりわけ興味深いエピソード」として取りあげられている。慎太郎自身の談として、「親父が入場券を買ってきてくれたんで、二回行きましたよ。隣の家の東大に行っているお兄さんに連れていってもらった。下駄を履いて行ったんだけど、着くと脱がされてね。雨の日で寒くてね。冷たい階段を裸足で登って、傍聴席でまた下駄を履いた」云々との記述(196)。「屈辱」なんていうニュアンスはまるでない。

[J0229/220202]