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長沼伸一郎『現代経済学の直観的方法』

講談社、2020年。

第1章 資本主義はなぜ止まれないのか
第2章 農業経済はなぜ敗退するのか
第3章 インフレとデフレのメカニズム
第4章 貿易はなぜ拡大するのか
第5章 ケインズ経済学とは何だったのか
第6章 貨幣はなぜ増殖するのか
第7章 ドルはなぜ国際経済に君臨したのか
第8章 仮想通貨とブロックチェーン
第9章 資本主義の将来はどこへ向かうのか

著者は物理学者とのことだが、経済学の見方を直観的に説明する、というのが本書のコンセプトとなっている。総体として読む価値のある本だと思うが、経済学諸概念の説明、それを利用した社会的・歴史的事象の大胆な解釈、著者自身の経済の展望という三者が重なりあっていて、それが魅力でもあり、ちょっと注意したいところでもある。「理系的」と言っていいと思うが、ものごとに明快な説明がつくこと自体に快感を感じてしまう感性にはあぶなさがつきまとう。このことは、たぶん分かってやっている著者の長沼さんより、読者側の注意かも。とくに行動経済学とか進化心理学とか好きな人。

ちょこちょこイスラーム金融の話が出てきたりする。たとえば、次の融資の話。イスラーム銀行との対比において、金利を定めて返却の義務を課す形で融資をする体制では「リスクは原則的に借り手側が一方的にかぶって、貸し手側の利子はゼロであるべきだとされているのであり、たとえ事業が不可抗力でどんな状況に陥ろうと、貸し手側は利子が明記された証文を振りかざして、それを全額支払うことを要求する権利を有している」(76)。たしかになあ。これが当たり前だと思われている現状。一方、イスラーム金融は、預金ひとつひとつを別個に扱っていかねばならない点で、手数がかかるという制限があるという。

長沼さんは、「資本主義とはその概念とは裏腹に、実は最も原始的な社会経済システムなのであり、それ以上壊れようがないからこそ生き残ってきたのではないか」という見方をして、金銭の力を社会を腐敗させることを抑え込むことに腐心してきた中世社会こそ、ある意味では文明的であったと述べている(80)。最終章では「縮退」という観点から、理論的にこうした洞察を説明している。「米国のリベラル進歩主義は、単なる縮退を社会的進歩と勘違いしてしまったのであり、皮肉なことに近代以前の社会のほうが、短期的願望を人為的に抑え込む必要性をよく理解していたように思われる」(402)

「そもそも考えてみると、『絶対的健全経済』、すなわち経済社会が恐ろしく堅実な人々だけで構成されており、危ない借金などは一切行わず、手元にある現金以上の消費を絶対に行わないという常識で社会全体が貫かれているとしたなら、そこでは経済の拡大などということはあり得ないのである」(252)。「およそい経済社会というものが規模の変動を伴うものである限り、こうした銀行の「又貸し」と貨幣増殖という不健全な行為は、経済社会のかなり根源的な部分に根ざしたものであることがわかるだろう」(253)。

そうそう、たしかに面白いとおもったのは、資産家階層・企業家階層・労働者階層の利害関係を整理しているところ。たとえば、インフレ環境の元では、資産者階層は損、企業家階層は得、労働者階層は損をすると。また、経済学理論の流行について、マルクス経済学、ケインズ経済学、新古典派それぞれを、投資家層・生産者層・労働者層(消費者層)の三階層との対応関係から説明している(117)。新古典派(新自由主義)は、投資家層および、ものを安く買える消費者層に支持されやすいのだという。

ビットコインについても一章が割かれている。ビットコインとは「電子的な世界の中に生まれる一種の新しい金本位制度の世界」なのだという。つまり、ビットコインの採掘量はあらかじめ決められており、金本位制がその規模拡大において限界に突き当たったように、ビットコインもまたそうなる可能性が高いと、著者は見ている。

最近、一般向けの経済(学)入門としては、田内学『お金のむこうに人がいる』
(ダイヤモンド社、2021年)
を読んだところだが、田内さんの本が金融経済と実体経済の関係性を述べていたのに対し、こちらの長沼本は、金融経済も含めた資本主義の原理、およびその原理に発する暴走ぶりを説明した本だと言える。とくに長沼本の前半はマックス・ヴェーバー『プロ倫』の解説になっていて、ヴェーバーによる資本主義体制の「脱自明化」の試みを受け継いでいるが、田内さんも長沼さんも「すこし立ちどまって考えてみれば、資本主義やその金融経済がおかしいのは自明」ということを示しているように思う。誰もがわけもわからず、お金稼ぎや貯蓄に奔走している現状はやはり恐ろしい。

[J0360/230503]

中本真人『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』

新典社選書、2021年。

1 内侍所御神楽を守った三人の公卿
2 応仁の乱と内侍所遷座
3 中世の内侍所御神楽
4 没落する公家、活躍する公家
5 内侍所臨時・恒例御神楽の再興
6 乱世を乗り越えゆく内侍所御神楽

呉座さんの本を読めばいいのかもしれないけど、僕にとって一番わかりにくい時代、南北朝から応仁の乱の頃。内侍所御神楽という主題を取り上げて、その混乱の京都の様子を活写する。

一条天皇の代、すなわち11世紀の冒頭にはじめられたという内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)。南北朝時代、南朝の内侍所御神楽は記録上途絶え、北朝は三種の神器の神鏡を欠いたままに、御神楽を続行。ただし困窮した北朝は朝儀の費用を室町幕府に頼るようになっていたが、応仁の乱前後に幕府自体が弱体化すると、いよいよ自前で経済的なやりくりをする必要に直面することに。応仁の乱の頃、御構(おんかまえ)と呼ばれた室町殿周辺の要塞区画のなかに籠もって暮らしていた東軍側の天皇や公家の生活は、相当にタフだった模様。

洞院家、平松家といった、家業として音曲や郢曲(神楽歌、催馬楽、朗詠、今様など)を伝えてきた公家も次々に断絶。その中心であった綾小路家も、16世紀初頭に資能(すけよし)の代でやはり断絶(のちに江戸時代になって名前としては再興する)。ところが、これに代わって御神楽を担ったのが、もともと箏の家である四辻家の季春。「これまでの家柄や家業のみにこだわる時代は終わろうとしていました」(105)。

応仁の乱によりすべての朝儀が停止された中で、真っ先に内侍所御神楽が再興されたのは、それが『禁秘抄』を典拠として、神鏡や伊勢の神に関わる神事とされていたからだという(135)。

資能の代で断絶する前、その祖父と父である綾小路有俊と俊量(としかず)について。「本書を通してみてきた綾小路有俊・俊量父子は、他家の伝授に難色を示した形跡がありません。むしろ積極的に芸を伝授しているほどです。綾小路家が他家に御神楽を伝授した背景には、実は伝授による礼銭も目的でした。慢性的に窮困した綾小路家は、いわば芸の切り売りをして、当座をしのぎ続けたのです。本来は手に入るはずのない名門綾小路家の芸能が、音楽の家の者でなくても金銭を対価に獲得できるようになりました。・・・・・・ それが結果的に、内侍所御神楽や雅楽が戦国時代も継続する基盤となったのです」(171-172)。すなわち、応仁の乱以前から「人的基盤が新時代に移行し始めていた」のだと。

この種の宗教的伝統について、社会的危機というのは両義的な意味を持つとも言える。もちろん、それは伝統の経済的基盤を切り崩すことで、伝統を危機に陥れる。一方で、危機であるからこそ、それが強く求められるという側面もあるだろう。ただし、いずれにしても、その過程の中で「伝統」は大きな変容を被ることになる。本書は、御神楽の「伝統」が経てきたダイナミックな変動を記述している。当時、「凡例といふ文字をば尚後は時といふ文字にかへて御心あるべし」と言ったのは山名宗全であったか。

[J0359/230502]

田内学『お金のむこうに人がいる』

ダイヤモンド社、2021年。副題「元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた予備知識のいらない経済新入門」。

第1部 「社会」は、あなたの財布の外にある。
 1 なぜ、紙幣をコピーしてはいけないのか?
 2 なぜ、家の外ではお金を使うのか?
 3 価格があるのに、価格がないものは何か?
 4 お金が偉いのか、働く人が偉いのか?
第2部 「社会の財布」には外側がない。
 5 預金が多い国がお金持ちとは言えないのはなぜか?
 6 投資とギャンブルは何が違うのか?
 7 経済が成長しないと生活は苦しくなるのか?
第3部 社会全体の問題はお金で解決できない。
 8 貿易黒字でも、生活が豊かにならないのはなぜか?
 9 お金を印刷し過ぎるから、モノの価格が上がるのだろうか?
 10 なぜ、大量に借金しても潰れない国があるのか?
最終話 未来のために、お金を増やす意味はあるのか?
おわりに 「僕たちの輪」はどうすれば広がるのか?

なるほど良書、「予備知識のいらない経済新入門」という看板に偽りなし。ただ、田内さんの主張の本筋は明快かつ刺激的なのだが、経済学諸学説の体系からするとどんな位置づけになるのかが知りたいところ。以下、田内さんの主張をまとめつつ。

誰かの労働がモノを作るが、そうしてもたらされるモノの効用が、本当の価値である。お金自体には価値はなく、「社会の中でのお金の役割は、労働の分配とモノの分配を決めることだ」(174)だという。

社会の豊かさは、どれだけの効用が生みだされているかということであって、預金や借金の多寡ではない。そもそも「お金は増減せずに、移動する」だけである。お金の総量は借金でしか増えないが、誰かの借金は誰かの預金である。お金の流れによって、効用がどれだけ増加するか――それは未来における効用も含む――が重要なのである。

お金の多寡は、社会の豊かさを決めていない。お金だけで社会の問題を解決することはできない。「社会全体で労働やモノが不足しているときはお金ではどうすることもできない。・・・・・・社会全体の問題はお金では解決できないのだ」(175)。だから、人口や少子化の問題はほんとうに重大な問題なのだ。節約しなくてはならないとすれば、お金ではなく、労働である。

ただし、重要な前提として、国内市場での経済と、外国との貿易・経済とはちがった発想で臨む必要がある。外国とのあいだには「労働と資源の貸し借り」がある。国内市場での借金は、国内における誰かの預金であるわけだが、外国に対する借金は、将来、その国に労働を提供する必要があるということを意味する。

とくに新鮮だった点のひとつは、株式の説明だ。「株式の転売は、コンサートチケットの転売に似ている」(136)。「ほとんどのお金は応援したい会社には流れていないのだ。2020年の証券取引所での日本株の年間売買高は744兆円。一方で、証券取引所を通して、会社が株を発行して調達した資金は2兆円にも満たない」(137)。なるほど。だから逆に、株式が暴落したとしても、実体経済自体に体力があれば即カタストロフィに至るわけではないと考えられる(田内さんはそうは言っていないが)。もちろん、実体経済と投機が無関係なわけでもないので、もう少し整理はしておきたいが、原則としては正しそうだ。

まとめ的に言うと、家庭の経済と、自国の経済と、国際的な経済とは、原理において区別される。家庭の経済の発想法を、自国の経済に適応するからまちがえる。つまり、「お金を節約して貯め込めばよい」「借金はしない」という発想を、自国の経済や国際的な経済に適用すべきではない。国内における労働およびそれがもたらす効用の増大こそが、国内経済で目指すべき目標である。田内さんはこのことを、「僕たち」の範囲を、自分や家族と設定するか、自分の国と設定するか、世界全体(彼の用語法では社会全体)と設定するかという問題として表現している。

[J0358/230429]