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S. N. アイゼンシュタット『日本 比較文明論的考察』第1巻

梅津順一・柏岡富英訳、岩波書店、2004年、原著 Japanese Civilization, 1996年。全3巻本だが、3巻の入手にも時間がかかりそうだし、一巻ずつメモ。

第1章 序―日本の謎
第1部 近現代の日本
第2章 明治国家と近代日本社会
第3章 近現代日本―制度形成
第4章 近代日本社会の試練
第5章 「不調和」、紛争、抗議とそれらの影響―規制、管理、対応
第6章 近現代日本の政治・社会システム―ダイナミックな非全体主義的管理社会
訳者解説

比較文明論の第一人者、アイゼンシュタットによる日本社会論。社会学的な法則よりも、歴史的経験や政治的動向を重視する立場のため、本書全体としての見通しは必ずしも明瞭ではない。本書自体もそうだが、本書で参照されている多くの研究から、英語圏における日本研究の厚みを感じる。彼がこの日本研究をはじめたのは1987年のことだそうで(訳者解説)、日本が強かった頃。

大きな文明史的な特徴づけとしては、日本を「自らの歴史を維持した唯一の非軸文明」とする見方が提示されている(21)。おそらく、第3巻あたりでまた、この見方の含意も説明されるのでは。

断片的にいろいろおもしろい記述があるほか、まとまった分析としてもっとも示唆に富むのは、紛争や抗議運動のありかたを扱った第五章。――日本社会の抗議運動では、普遍的なことばで表現される原則的な対立的主題が相対的に脆弱である(174-175)。大衆文化は、政治権力に対する不遜な主題や冷笑的態度を大量に生み出しているが、それが現実の反乱や社会秩序の変革をもたらすことはなく、性暴力や攻撃性のはけ口として機能している(178-179)。被差別部落や少数民族は、頼りになるイデオロギーをほとんどもたず、排除や抑圧に抗することができない(206)。

近代日本は「国家と市民社会が融合しようとする傾向」が強く、「国家も市民社会も国民共同体に埋め込まれており、その結果自律的な公共空間が発達することはほとんどなかった」(132)。「市民社会の脆弱さとそれに伴う「日本の疑似民主主義」(ピーター・ハーツォグの用語)の発展は、強い国家の抑圧を理由とするのではなく、むしろ国家と市民社会が国民共同体と絶えず融合していることを理由とする。……このように、非常に脆弱な市民社会と比較的安定した立憲民主主義体制、高度に管理されてはいるが全体主義的ではない社会という、通常の西洋の表現からすれば逆説的な状況が展開する」(238)。

思い当たるところの多い指摘だが、具体的にはたとえば、ティアナ・ノーグレンが『中絶と避妊の政治学』(青木書店、2008年)で描いている中絶・避妊をめぐる社会的動向など、アイゼンシュタットの分析ともよく合致する事例として思い浮かぶ。

[J0240/220225]

新井紀子『AI vs 教科書が読めない子どもたち』

少し前に話題をさらった本、『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)。

第1章 MARCHに合格―AIはライバル
第2章 桜散る―シンギュラリティはSF
第3章 教科書が読めない―全国読解力調査
第4章 最悪のシナリオ

自分の観点から、ポイントを列挙してみる。

1)AIは、中堅以上の大学に合格できるほどの能力を備えてきている
2)将来、AIが現在の仕事の多くを奪ってしまう
3)AIがもっとも苦手なのは読解力
4)独自のリーディングスキルテスト(RST)を開発
5)もっとも重要な、中高生の基礎読解力があまりに低いのが問題
6)読解力と相関する因子は、読書やスマホ等ではなく、貧困
7)アクティブ・ラーニング含め、日本の教育が育てているのはAIによって題される能力
8)多読ではなく、精読・深読が重要かも

AIが苦手なのは(定義にもよるが)基礎読解力であり、かつその能力があらゆる生産的活動の基礎として大切というのはよく分かる。ただ、どうすればよいかと言えば難しいところもあって、小中高の教員自体に読解力の低い人も多いし、もっと言えば、日本社会には、機械的な「受験勉強」だけが勉強だとおもって、大人になったら勉強しない人が多すぎる。読解力が重要だと、どれだけの人が実感として分かっているかどうか。まさに、勉強しつづける大人と、そうでない大人とで分断が拡大している最中かもしれない。

一番、あやふやで、突っ込みどころの多い主張は「将来、AIが現在の仕事の多くを奪ってしまう」というところ。単純にそういうことではなく、まず第一に問題となりそうなのは、機械的受験勉強を脱することのできない日本が、国際競争に負けるというだろう。これももうすでに現実となりつつある。第二に、たしかにAIは多くの仕事を代替するのだけど、その結果なにが起こりそうかといえば、AI自体やソフトウェアやコンテンツの開発を含む「AIにできない高度な仕事」と、「AIにやらせるよりも人にやらせた方が安い仕事」に分断されるということ。そうして、前者の「人間性を発揮する仕事」と、後者の「下働き的な仕事」とで格差が拡大するだろうということ。後者の仕事は、ほとんど定義上、ごく低賃金のものになるはずだ。社会保障制度で格差を補う動きが、どこまで社会的に支持され設計されることになるか。

だから、結果として、著者による次の予想は、たしかにありえるシナリオのように見える。「私の未来予想図はこうです。企業は人不足で頭を抱えているのに、社会には失業者が溢れている――」(273)。というか、新型コロナ禍のもとにある現状にも当てはまって見えるが、産業構造の変化・変動には必然的に生じる状況ということなのだろうか。

[J0239/220224]

O・S・カード『エンダーのゲーム』

田中一江訳、新訳版、ハヤカワ文庫、上下巻、2013年。もともとは、オースン・スコット・カードの1977年発表のデビュー作を、長編化して1985年に発表した彼の出世作とのこと。映画化もされているんだね。

まったく僕の読書傾向には入ってこない海外SFだが、友人の薦めがあったので読んでみた。こういう寄り道も、たまには良いかな? なるほど、最後にどんでん返し的な展開があると。上・下巻はちょっと長いようだが。

ぜんぜん基礎知識のない人間が読んで、まっさきに思い出したのはエヴァンゲリオン。人類の運命を賭けて、まだ幼い子どもが訓練を受けるところ。それから、敵の正体が一向に分からないところで話が進むところ。エヴァンゲリオンでもこの『エンダーのゲーム』でも、そのことが独特の緊張感をもたらす閉塞感を生んでいる。両者でまったくちがうのは、主人公のキャラクターと役割。SFではあっても、この作品には「寄宿舎もの」のテイストがある。エンダーもシンジも孤独に苛まれているが、エンダーはやっぱり超人的なタフガイ。

時代を画した作品は、それがほうぼうに影響を与えるがゆえに、後世になると陳腐にみえることがある。『エンダーのゲーム』の最終盤の展開は、今でこそ珍しくないパターンかもしれないが、これがこの手の物語の源流なのだとすれば、発表当時は相当に新鮮だったろうことは想像できる。エンダーの心象風景が具体化されていた場所の記述など、たしかに今読んでも、強い印象がある。

しかしなんだ。SF、とくに翻訳もののSFって、どれも似たような表紙で内容の良し悪しが判断できないというイメージ、ないし偏見があるけど、この作品に関しても正にという感じで、たんに偏見とは言えなさそうだな。

[J0238/220222]