Author: Ryosuke

澤村修治『日本マンガ全史』

平凡社新書、2020年。

序章 前史 ──『鳥獣戯画』から北斎まで
第1章 明治・大正期 ──ポンチ絵とコマまんが
第2章 昭和戦前・戦中期 ──『少年俱楽部』と「のらくろ」シリーズ
第3章 戦後復興期 ──手塚治虫の登場
第4章 『サンデー』『マガジン』のライバル対決
第5章 拡大と熱闘の時代
第6章 劇画と青年コミック
第7章 少女マンガ
第8章 『少年ジャンプ』の時代
第9章 メディアミックスとアニメ
第10章 海外へ進出する日本のマンガ
第11章 成熟のゼロ年代
第12章 電子時代のなかで

マニア的関心を離れて、マンガ史全体を鳥瞰する本を、という意図のもとに書かれた有益な書。20世紀の状況と、21世紀以降の状況を両方扱っているところもポイント。

この本を読んで感じるのは、マンガの歴史の短さ・新しさと、マンガ文化の奥深さだ。たとえば、手塚治虫がもしも長寿であったらまだ存命である可能性はあるし(96歳)、下の世代なら、萩尾望都・大島弓子・山岸凉子のようなレジェンド級も揃ってまだまだお元気(のはず)である。つまり、マンガがこれだけ発展したのは、たかだかここ数十年のあいだのことなのだ。一方で、この本を眺めて分かるだけでも、マンガという表現や文化の奥深さは凄い。さらに、たとえば『コロコロ』系の連載であったりだとか、エロ漫画の諸系譜であったりとか、本書でも紹介し切れていないジャンルや流れはまだまだある。マンガという文化現象の「混沌性」について、著者は「眩暈が起こる、という言葉は、もはや強調でも比喩でもない」と述べている。

マンガは、とくに雑誌をベースとして、団塊世代とともに成長してきたという指摘には納得。たしかに、最初少年漫画が展開し、さらには青年漫画として多様な表現方法が編みだされていった経緯を考えると、それを支えていたのが団塊世代であったことは容易に想像がつく。彼らを取り巻く社会状況があってこそ、従来の文化伝統からの切断を前提に、まったく新しい産業として、すぐれた制作者と多くの支持者が現れることになった。クール・ジャパン的な持ち上げ方にはいい加減、食傷ぎみだとはいえ、やはり日本に特異な文化である。もっとも、団塊世代がその担い手を務めてきたこと、日本社会が若い層を中心に縮小しつつあることを考えると、そのうち「日本に特異な文化であった」と過去形で語られるようになるのかもしれないが。

[J0225/220113]

立川談志『最後の落語論』

ちくま文庫、2018年、原著2009年。

第1章 落語、この素晴らしきもの
第2章 「自我」は「非常識」をも凌駕する
第3章 “それ”を落語家が捨てるのか
第4章 そして、三語楼へとたどりつく
第5章 芸は、客のために演るものなのか

落語も談志も知らないのだが、今回のM-1グランプリで、志らくがランジャタイの漫才を形容するのにやたら、「イリュージョン漫才」と言うものだから、「イリュージョン落語」なる概念を知るべく手にとったというわけだ。サンキュータツオ氏の解説によると、談志のイリュージョン落語の概念自体、変遷があるらしい。

「ディズニーのファンタジー映画のようなもの、とも言える。きらびやかな光線が空のあっちこっちから射してきて、二本の光線が交差する、その交差した点こそ、イリュージョンである」(60)。ふむ?「伝統的な落語を、落語リアリズムをきっちり演れて、さらにイリュージョンが理解(わか)る才能もある、という両方がなければ、家元〔談志〕は評価しない。なぜならば、イリュージョンはあくまでも添え物であるからだ」(61)。ふむふむ?

イリュージョン落語とどう関係するのかは別として、落語論としては、こっちの方が分かる気がする。つまり、「落語を聴き、己の生活、性格等々と〝がっちり合う〟フレーズと出会ったときの喜び。それが落語ファンの〝堪らない〟フレーズとなる。また、落語家のほうでも、〝合う〟という自信を持っている。これらが、キラ星の如く入っているのが落語である」(56)。それにしても、これだけ毒舌・批判的で、なんなら厭世的な雰囲気もある談志でも、落語そのものに対する愛情だけは揺るがないのだな。落語を愛するあまりの毒舌と考えれば、順序が逆かも知れないが。

「庶民は相手にしない」。「若い頃は、いい芸を演れば、客はシュンとして聴くと思っていた。ナニ、それは芸だけに非ズで、食べ物であろうが、音楽であろうが、演劇であろうが、素晴らしければ素晴らしいほど、言葉は出ないはずだ、とね。ところが、そうではなかった」(217)。落語への信頼と世間への失望のはざま、自己嫌悪と自負のはざま、文章で読めば真っ正直なことが分かる。直に会ったら、きっと面倒くさかっただろうことも分かる。

[J0224/220112]

『ブックオフ大学ぶらぶら学部』

夏葉社、2020年。

  • 武田砂鉄「ブックオフのおかげ」
  • 山下賢二「その時、人は無防備で集中する」
  • 小国貴司「ブックオフは「暴力」だ。」
  • Z 「ブックオフとせどらーはいかにして共倒れしたか」
  • 佐藤晋「私の新古書店」
  • 馬場幸治「ブックオフに行き過ぎた男はこれからもブックオフに行く、そして二十年後も」
  • 島田潤一郎「拝啓ブックオフさま」
  • 大石トロンボ「よりぬき新古書店ファイター真吾」

ブックオフに青春を費やしたことでは人後に落ちない身には、おもしろすぎた。われわれ世代もいよいよ、回顧の本があれこれ出てくる頃合いだが、少年ジャンプやコロコロ的なものは、やっぱり小中学生の頃の話だし、最近目立ってきた「渋谷系」の話題みたいなものは実のところ正体があいまいで、しかもちょっとハイソな要素もあるから、地方に対する東京視線だったりと、妙にマウント取りみたいな状況になったりする。そう、だからブックオフなんだよ。「ブックオフの黄金期とロストジェネレーションたちの長いモラトリアム期はぴたりと重なる。」(島田潤一郎、p.168)

「ブックオフあるある」として、島田潤一郎氏が聞き手をつとめた大石トロンボ氏の章が抜群。「そこはやっぱりブックオフやから、古書的価値のいいものではなくて、自分的価値のいいものということになりますけど」つって。CDの、「その他」の棚の話とか。

ユーザー目線の章とせどらー目線の章があって、やっぱり前者の方が面白いんだけど、Z氏くらい、せどりの手法とブックオフの値付けシステムの動向をきちんと書いていると、これはもう歴史だ。社会史、平成史。

ぜひこの本は『レコスケくん』と並べて読みたい。『レコスケくん』よりも世代や層を絞った感じ。まあ、本書でもあちこちに顔を出しているように、ブックオフの世界でも、東京と地方とではコンテンツ格差はあるんだけどね、悲しいことに。

[J0223/220110]