Author: Ryosuke

豊田武『宗教制度史』

著作集第五巻、1982年、吉川弘文館。

豊田武(1910-1980)は、東京帝国大学国史学科卒業で、東北大学や法政大学の教授を歴任した歴史学者。平泉澄(1895-1984)や圭室諦成(1902-1966)よりは後の世代で、石母田正(1912 – 1986)とほぼ同世代にあたる。

第1編 日本宗教制度史の研究(1938 / 1973)
 一 宗教制度の変遷概要
 二 寺院本末関係の発生とその発展
 三 寺院議決機関の成長
 四 檀家制度の展開
 五 江戸時代の寺領制度
 六 明治初年の上知問題
 七 皇道宣布運動の進展とその意義
 八 信教自由思想の発達と政教分離の経過について
 附 仏教社会事業史の展望
 明治宗教制度年表
第2編 神祇信仰
 一 古代・中世の塩竈神社(1975)
 二 中世に於ける出雲大社の信仰(1940)
 三 神仏分離運動の一前提(1940)
 四 教派神道の発達(1943)
 五 仏徒の神社観について(1938)
第3編 中世の祭祀組織
 一 神社と村落結合(1938)
 二 宮座の発達とその変質(1936)
 三 中世の村落と神社(1939)
 四 中世に於ける神社の祭祀組織について(1942)
 五 武士団と神々の勧請(1976)
 六 武蔵武士と神々(1978)
 七 武蔵野の開拓と神社(1978)
 八 下野の武士と神(1978)
解説/黒田俊雄

本書は、『日本宗教制度史の研究』(1938 年)を第1編として収め、この主題に関連する諸論文を第2編・第3編として付したという構成になっている。

著者がのこした仕事全体の中心は、座の研究をはじめとする中世商業史らしいが、『日本宗教制度史の研究』は、文部省宗教局の嘱託となって実施した宗教制度調査の成果であり、著者20代の頃の処女作にあたる。解説の黒田俊雄は「模範的な〝近代日本〟的宗教史観」とかなり批判的に評しているが、僕自身は、なるほど通説というのはこうして築かれてきたのだと(揶揄の気持ちではなく)思いながら読んだ。著者の本当の専門ではないだけに、へんに野心を出すことなく、当時における通説を素直に総合した通史になっているという印象。黒田がほのめかしているように、とくに当時の政府や宗教政策におもねっているとは感じなかったし、むしろ、黒田がむりに噛みついている部分もありそうな。

後半の論文は、著者の専門である座の問題が集中的に扱われているが、しばしば、神社信仰における頭役にあたった人や家が、責任逃れをして罰せられている事例がおもしろかった。もちろん栄誉ではあったのだろうけど、やっぱり逃げたくなるようなきつい重荷でもあったのだなと。

[J0337/230208]

圓井義典『「現代写真」の系譜』

副題「写真家たちの肉声から辿る」、光文社新書、2022年。

第1章 土門拳と植田正治
第2章 東松照明と森山大道
第3章 荒木経惟と須田一政
第4章 杉本博司とマルセル・デュシャン
第5章 佐藤時啓と森村泰昌
第6章 畠山直哉と九〇年代以降
終章 オルタナティブなまなざし

それぞれの写真家たちに詳しい人からみたらどうか分からないが、詳しくない僕からすると、とても良くできた良書。大学での講義をもとにした本らしい。

写真家たちの思想を紹介していくつくりだが、ふたりずつ対照させながら構成していて、ポイントが掴みやすい。また、せまい写真界内で話を進めるのではなく、現代芸術の広い流れのなかで、それぞれの写真家や写真表現を位置づけているところに特徴がある。必ずしもこれら写真家個人に興味がなくても、「写真とは何か」「写真という表現形式の意味とはなにか」という問題に関する発想のあれこれを紹介した概論として読める。

たとえば、ふつう、本書に取りあげられている森村泰昌などは写真家とは呼ばない気がするけれども、写真を通じた表現を追究していることはまちがいないわけだからと、逆に納得させられる。つまり、どこかで「これは正しい写真ではない」と思っている自分自身の思い込みに気づかされる。

本書内に実際に掲載されている写真の点数は多くないので、それぞれの写真家の写真集を眺めながら読んだりすると、いっそう興が深そうだ。

[J0336/230208]

熊倉潤『新疆ウイグル自治区』

副題「中国共産党支配の70年」、中公新書、2022年。

序章 新疆あるいは東トルキスタンの二千年
第1章 中国共産党による統治の始まり 1949-1955年
第2章 中ソ対立の最前線として 1956-1977年
第3章 「改革開放」の光と影 1978-1995年
第4章 抑圧と開発の同時進行 1996-2011年
第5章 反テロ人民戦争へ 2012-2016年
第6章 大規模収容の衝撃 2016ー2021年
終章 新疆政策はジェノサイドなのか

新疆ウイグル地区における共産党による支配や弾圧の歴史および現状を描く。こういった政治上なまなましい問題を論じるのは、正確な情報を入手する困難もあれば、現実的な危険がないとも言えないし、たんへんな仕事だと思う。

新疆ウイグル地区にはムスリムがいて、とくに共産党による産児制限や不妊手術の強制がひとつの争点となってきたという。

欧米側は、再教育収容所への強制収容をはじめ、新疆ウイグル地区の人々に対する抑圧を「ジェノサイト」と見なして強く批判してきていることは、日本ではユニクロの不買運動があったことでも知られている。これらが人権侵害であることは明らかであるが、本書筆者は、「ジェノサイト」という表現が適切かどうかという問題提起を行い、むしろ「民族の改造」という表現の方が適切であると言う。筆者はそう表現してはいないが、つまりは強制的な民族同化ということだろうか。

[J0335/230207]