Author: Ryosuke

山本昭宏『戦後民主主義』

中公新書、2021年。

第1章 敗戦・占領下の創造―戦前への反発と戦争体験
第2章 浸透する「平和と民主主義」―一九五二~六〇年
第3章 守るべきか、壊すべきか―一九六〇~七三年
第4章 基盤崩壊の予兆―一九七三~九二年
第5章 限界から忘却へ―一九九二~二〇二〇年
終章 戦後民主主義は潰えたか

筆者は「戦後民主主義」ということばに次の三面を認める。第一に、戦争体験と結びついた平和主義。第二に、直接的民主主義への志向性。第三に平等主義である。こうした「戦後民主主義」の理念の歴史を辿って、1945年から2020年まで。また、政治や言論界の動向だけでなく、映画やアニメと言った文化的・社会的な動向のなかにもこの理念のありようを探る。

「戦後民主主義」の理念史とはまさにタイムリーな主題で、いささか読者として過大な期待をしすぎたかもしれない。時代についても、また政治と文化の両面を捉えようとする視点についても、ちょっと新書一冊に詰め込むには広すぎ大きすぎた感。小熊英二の仕事と対抗あるい補完するのであれば、1980年以降「戦後民主主義」理念が人々の政治意識の中でもはや新鮮さを失っていく過程に絞って、そのなかでこの理念を堅持しようとする動きとともに描いた方がよかったのでは、というか、そういう本を読んでみたいと思った。

[J0133/210209]

小泉凡『民俗学者・小泉八雲』

恒文社、1995年。八雲の曾孫にして八雲研究者としても著名な著者。八雲の仕事のなかから、民俗学的な主題や議論を整理するとともに、八雲を民俗学の文脈のなかに位置づけようとする。

序章 研究史
第1章 基層文化への関心とその背景
第2章 来日後の著作からみる民俗学研究の特色
第3章 民俗学史上におけるハーン
第4章 結びと展望

ほうほう、ハーンは自分を「東洋生まれ」だと自認していたのか。「東洋の事物に対する私の愛好は偶々私の生まれが東洋であり、血流も半ば東洋人でありますので、左程異様に思わるる迄もないと考えます」(1876年5月書簡、『小泉八雲全集』第12巻所収とのこと)。

本書内で幾度か触れられている話題として、ハーンが著した「日本人の微笑」を、柳田國男は『笑いの本願』で批判しつつも、日本文化への理解についてはハーンを評価していたという話。柳田による評価に関する著者の見解、「チェンバレンに対しては、沖縄研究の先駆者、また偉大なるプロの学者として大いなる敬意を払い、一方、ハーンに対しては、学者としての敬意ではなく、民俗学に関して素人であるが、常民の心に共感し、先駆的なその着眼点や日本人の心意の微妙さを洞察する力といった彼の直感力、感性に対する敬意ではなかったろうか」(178)。なるほど。この文章には注がついているが、柳田がモースを批判しているくだりをわざわざ紹介しているのは、ハーンに対してモースをたてる太田雄三氏への皮肉かも。

さて、ハーンの仕事は貴重な民俗学的知見を提供するものではあっても、ハーン自身を民俗学者とするのは少し難しいのではないか。ハーンは確かに、日本旧来の生活や人々におけるあれこれの微妙な心意までを共感的に理解していたようだが、最後には、それらに触発されて湧きだしてくる自分自身の感覚やヴィジョンを見つめていたのではないか。柳田が実は心裏に抱きつつ、意識して秘した熱っぽい幻視の世界、柳田とは異なって、ハーンはそこに漂うことを自らに禁じておらず、そのことこそが彼の仕事の魅力になっているようにおもう。民俗学のような学問的成果とちがって、そうした幻視の魅力の価値はひとによって評価が分かれるだろうけども。

[J0132/210208]

ラフカディオ・ハーン『心』

平井呈一訳、岩波文庫、1951年。日本に来てからの著作としては『知られぬ日本の面影』(1894年)、『東の国より』(1895年)に続く、三作目。出版年の1896年は、ハーンが神戸から東京に移るとともに、帰化手続きがなった年にあたる。

停車場で/ 日本文化の真髄/ 門つけ/ 旅日記から/ あみだ寺の比丘尼/ 戦後/ ハル/ 趨勢一瞥/ 因果応報の力/ ある保守主義者/ 神々の終焉/ 前世の観念/ コレラ流行期に/ 祖先崇拝の思想/ きみ子

あれこれのエピソードにハーンが見つめる「日本」は、あくまでハーンが見出した日本と理解すべきだ。「まちがった日本像」だと言いたいわけではない。余人にはない、ハーンの神秘的に張りつめたまなざしにこそ映る、怪しい光を放つ光景があるということだ。

ハーンは、スペンサーと仏教の輪廻転生を重ね合わせる。美の感情、恋の衝撃こそ、輪廻の証拠であり進化の証拠であるとハーンは見る。強い感情は個人のエゴを超えている。それは人間として、先祖から受け継がれたものであり、その意味で遺伝の結果である。スペンサーも仏教も、個人の属性がたんに個人に尽くされないとする点で一致しているのである。

「いかなる美的感情にも、そこには、人間の脳髄の摩訶不思議な土のなかに埋もれた、百千万億の数えきれない妖怪玄妙な記憶のさざなみが動いている。・・・・・・〔美的理想に似たものを知覚したときの〕この身ぶるいこそは、生命の流れと時の流れとが、一時にどっと逆流するために、それに伴って起る現象なのであって、そこに百千万年、百千万億年を閲した感動が、一瞬の感激となって総括されるわけだ。」(「旅日記から」64-64)

「心理学者は、われわれにこう言っている。その〔初恋の〕蠱惑は、じつは、偶像崇拝者自身の心のなかに潜在する、祖先の力である、と。つまり、死んだ祖先が、まじないを施すのだというのである。恋するものの心におきる激動は、つまり、先祖の激動だというのである」(「因果応報の力」153)。「人間を死に導くような恋愛は、土中に埋められた前世の人の情熱が、この世に迷いでた、飢え焦がれる一念というだけではなくして、なにかそこに、もっと深い意味があるのではなかろうか。ひょっとすると、それは、長く忘れ去られていた前世の罪の、避けようとしても避けることのできない、因果応報を意味するものではないのだろうか」(164)。

「心理学進化の学理からいうと、生きているものの脳髄は、いずれも無量無数の死者の生命から構成されていることを示している。・・・・・・物にたとえていうと、人間の心は幽霊のすみかである」(「祖先崇拝の思想」260)

他の著作もあわせて、こんなかんじの感想を持つ。ハーンが描くところの輪廻や前世とは、重苦しく現世を縛り重くのしかかる鎖のようなものではない。初恋の瞬間、あるいは大きな不幸の瞬間に、電撃のようなヴィジョンとして一瞬垣間見られる、はるかな過去世界にまで広がっているほんとうの世界の成り立ちである。ハーンが心を寄せるところの「日本人」は、ふだんは隠れているそうした世界の成り立ちに寄りそって生き、それに殉じる人々なのだ。

[J0133/210208]