Author: Ryosuke

神崎宣武『神主と村の民俗誌』

講談社学術文庫、2019年、原著は1991年『いなか神主奮戦記』。

問わず語りを聞く
八百や万の神遊び
マレビトの眼
恩師とはありがたき哉
恐ろしや火が走る
信心は宗教にあらず
家祈祷のはやりすたり
株神は摩利支天
中世の歴史再現
町づくりプロジェクトの十年
いまは亡き友人の誓い
神崎姓が二十四軒
直会膳の移りかわり
神と仏の「ニッポン教」
むらの祭りを伝える意義

宮本常一の弟子でもある著者、本書では岡山県小田郡美星町の神主といういわば当事者の立場から、1991年当時における中世以来の、しかし「変わりゆく民俗風景」を描く。著者の仕事の趣向や主題はいろいろだが、どれもそれぞれの「生活世界」に引き込まれる面白さ。

備中神楽における託宣神事の「演技」や、しかし火事の予言が当たった話。消えゆく民俗のほか、大晦日からの初詣や一年間の物忌など、メディアなどを通じて新たに「創られ」流入してくる種々の風習。社縁的な氏神、より地縁的・血縁的な産土荒神、さらに密な結合の株神の祭りという信仰の重層性。株神には摩利支天を祀ることが多いらしい。

それにしても、神主としてこれだけの仕事をこなしながらあの数々の民俗学的業績とは、驚き。これが宮本イズムだろうか。「あとがき」にあるように、平成の大合併や高齢化・過疎化をはじめとする諸々の社会変化を経て、ここに描かれている平成初期の状況、「あの時代の「むら」の、まだ活力のあった実情」もさらに遠くになってきているようだ。昨年からの話で言えば、新型コロナの流行も祭りや民俗慣行の衰退を各地で加速させたろうなあ。

[J0136/210215]

西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』

同時代ライブラリー、岩波書店、1998年、原著1993年の増補改訂版。

序・文字の王国
大黒舞
ざわめく本妙寺
門づけ体験
ハーメルンの笛吹き
耳なし芳一考

これはおもしろい。軽妙な筆致の裏にあってめだたないが、かなりの量の調査が下敷きになっていることも覗われる。数多く示されている図版もとおりいっぺんでなく、興味深いものが多い。

レフカダ島、ダブリン、ダラム、シンシナティ、ニューオーリンズ、マルティニーク島と、世界あちこちを周遊して松江、熊本、神戸そして東京に行きついたハーンの足取りそのままに、ハーンが聴き耳を立ててきた音を辿って、「耳なし芳一」に行きつくその様子を描きだす。本書を読むと、ハーンの経験すべてが「耳なし芳一」へと奇跡的に結びついていったような気がしてくる。

その内容は本文に譲るとして、「耳なし芳一」の感覚世界について一点だけメモを。「ハーンがこの話を「耳なし芳一」と題したのは、じつに反語的な命名であった〔原典では「耳きれ芳一」〕。この物語の中で、耳という耳は過敏になることはあっても、役割を放棄することはない」(183)。とくに亡霊の侍が、般若心経の呪いで姿を消した芳一を探す傍ら、目をつむってそのつぶやきをじっと聞かざるをえない芳一の場面。「闇の平等の中で、ふたりは異常に接近しあい、芳一は耳を全開にする。一方、なまじ視覚に依存しているサムライは、それでも目を凝らす。この対比の妙が、この場面の緊張を倍加している」(189)。まさにだ。

[J0135/210212]

牧野陽子『ラフカディオ・ハーン』

中公新書、1992年。

第1章 ハーンの来日―西洋に背を向けた人
第2章 松江のハーン―理想の異郷
第3章 熊本から神戸へ―振り子の時代
第4章 晩年の結実―微粒子の世界像

同じ新書の太田雄三『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書、1994年)がもっぱら批判を動機にしていたことに比べれば、ハーンの作品への共感を下敷きにして、よりバランスの取れた一冊となっている。

第三章まではハーンの歩みを辿っているが、第三章の後半からは、むしろハーンの作品世界の評価に入っていく。とりわけチェンバレンとの関係性がひとつの記述の軸に置かれている。晩年に近づくとより顕著になる傾向として、ハーンがたんに日本文化を描こうとしたのではなくて、実は宇宙や生命について考えていたという見方には賛意を示したい。『怪談』を書く際のハーンは、「哲学的な妖精物語」という構想を持っていたそうな(チェンバレン宛の手紙、178)。

「ハーンという人は、どうも精神的安定を得た時に想念を馳せる人であったらしい」(155)。ほんとうなら、おもしろい指摘。

「ハーン晩年の怪談は単なる怪奇趣味の所産ではない。通常ジャンルとしての怪奇小説につきものの人間の異常心理、残虐性、不条理、超自然現象などはハーンの怪談に無縁のものである。そしてハーンの怪談の多くに共通するのは、すべて死者、あるいは死者に準ずる存在との出会いのテーマだといえる。ここでは幽霊が怨恨を抱いて登場しても、ハーンの視点は死者の側にはない。報復譚によくある仏教的教訓などももちろん眼中にない。生者が死者といかに関わるか、はたしてその死者の存在や訴えを受け止めるか否かに主眼が置かれるのである」(174)。

「怪談の再話、仏教への考察および神道研究をも含む哲学的随想、そして回想文。これら晩年の作品に共通するのは、すべて人間の現在にとっての「過去」、それも通常の歴史的把握で捉える外的な時間体系とは異なり、個体意識を越えた生命の連鎖としての「過去世」の持つ意味を問うていることである。ハーンが最終的に行き着いた本質的テーマは、いわば人の背負う、内なる積み重ねとしての時間の蓄積の考察という一点に尽きる」(182)。

著者は、ハーン晩年の怪談が「不思議に透明な雰囲気に支配されている」と指摘する。まさにそのとおりで、日本土着のものや、それを古代ギリシャと比較してもたんに地域文化への愛着に終わっていないし、上記引用に示されたとおり「教訓」とも無縁なひとつの世界がそこに示されている。

しかし、もし死者との邂逅がハーン生涯のテーマのひとつだとしたら、やはり日本体験の原点が出雲であったことに、改めて大きな意味を感じてしまうね。

[J0134/210212]