Author: Ryosuke

村井早苗『キリシタン禁制史における東国と西国』

大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2013年。小冊子のシリーズ「仙台・江戸学叢書」の一冊。

1.大航海時代と日本
 1.ポルトガルとイエズス会
 2.イスパニア系修道会の来日
2.東国における布教の開始と展開
 1.蒲生氏郷とキリシタン
 2.布教の開始と進展
 3.仙台藩:慶長遣欧使節
 4.会津藩
 5.蝦夷島
3.キリシタン禁制の開始
 1.仙台藩
 2.山形藩、米沢藩、会津藩、津軽藩
4.キリシタン禁制の展開
 1.諸地域における禁制の展開
 2.島原・天草一揆とキリシタン禁制
 3.「鎖国」の成立:ポルトガルの追放
 4.ベルナルド市右衛門とフランシスコ孫右衛門
 5.寛永20年のキリシタン摘発
5.奥羽におけるキリシタン禁制の展開
 1.奥羽各地のキリシタン摘発
 2.公卿唯一の殉教者猪熊光則
 3.会津藩におけるキリシタン禁制政策の展開

キリシタン禁制といえばなにせ、星野博美『みんな彗星を見ていた』(文藝春秋、2015年、のちに文庫化)が衝撃的で、そのイメージが頭に張りついている。一方、この小冊子は、キリシタン禁制や摘発の出来事を淡々と述べていて、それはそれで怖い歴史の一場面。

「仙台・江戸学叢書」のラインアップは、こちらの外部リンク。https://www.oosaki-hachiman.or.jp/edogaku/

同シリーズからのブログ記事、吉岡一男『仙台城下の民俗信仰』

[J0420/231031]

古田徹也『謝罪論』

副題「謝るとは何をすることなのか」、柏書房、2023年。

プロローグ
第1章 謝罪の分析の足場をつくる
 第1節 〈軽い謝罪〉と〈重い謝罪〉――J. L. オースティンの議論をめぐって
 第2節 マナーから〈軽い謝罪〉、そして〈重い謝罪〉へ――和辻哲郎の議論をめぐって
 第3節 謝罪にまつわる言葉の文化間比較
第2章 〈重い謝罪〉の典型的な役割を分析する
 第1節 責任、償い、人間関係の修復――「花瓶事例」をめぐって
 第2節 被害者の精神的な損害の修復――「強盗事例」をめぐって①
 第3節 社会の修復、加害者の修復――「強盗事例」をめぐって②
第3章 謝罪の諸側面に分け入る
 第1節 謝罪を定義する試みとその限界
 第2節 謝罪の「非本質的」かつ重要な諸特徴
 第3節 誠実さの要請と、謝罪をめぐる懐疑論
第4章 謝罪の全体像に到達する
 第1節 非典型的な謝罪は何を意味しうるのか
 第2節 謝罪とは誰が誰に対して行うことなのか
 第3節 マニュアル化の何が問題なのか――「Sorry Works! 運動」をめぐって
エピローグ

著者は哲学の人だが、とくに社会学者は必読・必携でしょう。一般の人も興味が湧くはず本だが、てっとりばやく「謝り方」のポイント9条を知りたい人は、エピローグだけ読んでも意味がある。それでももちろん、哲学者らしく、次のような考えは崩さない。

「現実には、マニュアルには当てはまらない状況や、マニュアルがかえって障害となるような状況が、いくらでも存在する。・・・・・・むしろ最も重要なのは、マニュアルでは対処しきれない現実の難しさに対して、骨折ることを厭わずに向き合ってよく考えることだ」(279-280)

実際、本文では謝罪の「定義」について、諸学問分野での議論を検証しながら、一義的な定義は不可能であるとしている。とくに、〈軽い謝罪〉と〈重い謝罪〉とではかなり性格が異なること、かつ〈軽い謝罪〉と〈重い謝罪〉との差異は連続的なグラデーションであって、〈軽い謝罪〉と「呼びかけ」や「感謝」などの謝罪以外の行為とも連続していることを指摘している点は、本書のポイントのひとつである。

読んでいてなるほどと思った点のひとつは、「謝罪という行為は、それをする側とされる側のコミュニケーションの起点として機能する」(187)という視点だ。

「謝罪は相手に対して応答を求める行為であり、謝罪を受けた時点で相手は、(無視も含めて)何らかの反応を示す立場に置かれている。コミュニケーションはその場かぎりで終わるかもしれないし、長く続くものになるかもしれない。それから、コミュニケーションは常に友好的なものや建設的なものであるとは限らない。一方がさらなる屈辱や被害を受ける可能性もあれば、交流を通じて両者が精神的にさらに深く傷つく可能性もあるだろう。ただ、その一方で、両者の傷が癒される可能性も、人間関係やコミュニティなどが修復される可能性も、謝罪を起点にしたコミュニケーションによってしばしば開かれるのである」(188)

第4章第3節の「Sorry Works! 運動」の話題も興味深かった。それは、2000年代初め頃からアメリカで興ってきた運動であるという。これまで、病院内では医師が責任回避を考えるあまり、I’m sorry を言おうとしないことが、患者との関係を悪化させてきた状況があるとして、I’m sorry という表現の意味を「過失の表明」ではなく、「患者やその家族への共感(empathy)の表現」という意味に限定して、I’m sorryという表現を賠償責任を認める証拠とはしないという法整備を行おうとするのが、この「Sorry Works! 運動」とのことである。この運動は、日本では「共感表明謝罪」と「責任承認謝罪」という区別の設定として議論されてきているらしい。

筆者は、これらの議論に批判的で、第一には、共感の表現と過失(責任)の表現とを切り離すことができず、前者は後者によって支えられている面があると指摘する。また、日本語の「共感表明謝罪」という訳語は、共感と謝罪を切り離そうとするこの運動の意図に沿ってはおらず、そもそも両者の区分に無理があることがそこに関係している。より根本的には、謝罪をマニュアル化し図式化しようとすること自体、問題解決には繋がらないものと主張されている。

このほか、個人レベルでの謝罪のことに加えて、戦争責任のような「集合的責任」に関わる謝罪の問題も論じられており、本書の議論の射程は広い。あるいはまた僕的に気になっている別の問題、日本社会には、なぜこうもスカスカな形だけの謝罪が蔓延しているのだろうか。本書はこの問題までは扱ってはいないが、これを考えるための手がかりも数多く与えてくれそうだ。

[J0419/231029]

岩永直子『言葉はいのちを救えるか?』

副題「生と死、ケアの現場から」、晶文社、2023年。

I部 優生思想に抗う
1 難病と生きる──岩崎航・健一さんの「生きるための芸術」
2 知的障害者が一人暮らしすること──みんなを変えたげんちゃんの生き方
3 なぜ人を生産性で判断すべきではないのか──熊谷晋一郎さんに聞く負の刻印「スティグマ」

II部 死にまつわる話
4 安楽死について考える──幡野広志さんと鎮静・安楽死をめぐる対話
5 死にたくなるほどつらいのはなぜ?──松本俊彦さんに聞く子どものSOSの受け止め方
6 沈黙を強いる力に抗って──入江杏さんが語る世田谷一家殺人事件もうひとつの傷

III部 医療と政策
7 「命と経済」ではなく「命と命」の問題──磯野真穂さんに聞くコロナ対策の問題
8 トンデモ数字に振り回されるな──二木立さんに聞く終末期医療費をめぐる誤解

IV部 医療の前線を歩く
9 HPVワクチン接種後の体調不良を振り返る──不安を煽る人たちに翻弄されて
10 怪しい免疫療法になぜ患者は惹かれるのか?──「夢の治療法」「副作用なし」の罠
11 声なき「声」に耳を澄ます──脳死に近い状態の娘と14年間暮らして

終章 言葉は無力なのか?──「家族性大腸ポリポーシス」当事者が遺した問い

医療ジャーナリストが、患者や支援者、運動家や研究者などにインタビューし、取材した記事を集めた一冊。たんに病気・症状のバラエティ、あるいは立場のバラエティだけでなく、思想の面でも幅のある人を扱っている点が特徴的。

たとえば、第4章は、安楽死法制化を進めようとしている幡野広志さんを取材、筆者自身はときに疑問を挟みながら話をうかがっている。安楽死問題を考える上で、幡野さんの主張ひとつひとつに本気で答えることが大事だろう。

第6章で取りあげているのは、殺人事件被害者の親族として、グリーフケアに携わっている入江杏さんで、最初は僕も「苦手なタイプ」と思ったが、この方が取り組んでおられる問題、すなわち「被害者は語らざるをえない」という問題は深い。

「聞き手の癒しになるような伝え方をしないと受け入れられません。そして、聞き手に受け取ってもらえないと、話す者はさらに傷ついてしまう。ですから、自分の感情そのままを話すというよりは、受け入れられるように相手の感情に訴える語り方をする場合がある。それは自分の承認欲求のためではないのです」(220)

第10章はがんの代替療法にはまってしまった人の話で、こういうチョイスも興味深い。第11章は、生まれて以来脳死に近い状態で暮らす西村帆花さんとその両親の話で、シニカルな人は「またその手の話か」と思うかもしれないが、それでも考えさせられるポイントは多い。

終章に玉井真理子さんという方の言葉が紹介されているが、著者が、前向きな物語や「社会の改善」の物語に固執していないところで、これら人々の暮らしから掬いとることができている場面や言葉がある。

[J0418/231026]