副題「情報災害を広める風評加害者は誰か」、徳間書店、2022年。

第1章 「情報災害」とは何か
第2章 複合的「情報災害」と福島
第3章 印象操作という「引き金」
第4章 「情報災害」を記録するということ
第5章 「情報災害」と、その後
終章 教訓は生かされるのか

この本は、ふたつの面で意義を持っている。ひとつは、「情報災害」という、多くの部分で現代的な現象に迫ろうとした書であること。もうひとつは、情報災害の問題を軸にしながら、東電原発事故後に福島県で生じたことやその現状を記述した本であること。

「「情報災害」の実状とは、単に「モノが売れない」風評被害だけに留まるような代物ではない。「社会に絶望を広め、多くの人生を狂わせ、人を殺し、冒瀆する人災」である。ところが東電原発事故に伴う風評被害は悉く「なかったこと」にされ、人災でありながら責任すら問われなかった」(126)

「福島に対する風評は、政権攻撃の材料にするために拡大・温存されてきた。「風評加害」の中心の一角を担うのが「反権力」を是としてリベラルを自称する人達とその支持者達ばかりであった・・・・・・」(143);「自らも実は別の巨大権力であるという自覚がなきまま暴走し、恣意的に弱者を選別したり、弾圧することも厭わない。自分は権力に抵抗しているつもりなのに、やっていることは被災地・被災者の利益や人権を攻撃することになっている」(144-145)

「「情報災害の長期化を防ぎ、被害を低減させる」目的のためには、情報災害の「引き金」となり得る直接的なデマやフェイクニュースへの対策のみならず、時間と共にそれらに置き換わって「情報災害」を維持・温存させる「柱」の機能を果たす印象操作、すなわち「ほのめかし」への対策も併せて行うことが不可欠である」(157)

結局、こうした対策が講じられずに、放置されてきていると。林さんは、結局のところ、原発事故による「直接的な」被害者は生まれることはなく、むしろ風評や避難によるストレス等によって、多数の被害者が生まれてしまったとみている。「東電原発事故由来の被曝による健康被害は生じなかったが、そのリスクを過剰に恐れた言説、風評に伴った「避難のリスク」こそ多くの人生を狂わせ、命を奪った」(280)と。

「脱原発の論拠を「フクシマ」という神話に求めてしまったことは大きな不幸だ。深刻な健康被害がなくとも原発事故の責任が免責されるわけではなく、生み出された多くの分断による不幸は十分に脱原発の論拠にもなり得る。むしろ脱原発のためにこそ「フクシマ恐怖神話」への依存を脱却して、原発事故の被害を再定義するべき時期がきていると、私は強く感じる」(222)

原発事故の被曝による直接的な被害がほとんどなかったこと、福島での生活や生産物が安全であること、それから事故以降の「風評加害」が、反原発を標榜する陣営のものを含めて、批判されるべきものであること、それは本当の意味で福島県民の生活実態に関心を寄せていないがゆえに生まれたものであることについては、まったく林さんに賛同するし、またこうした本にまでこの事態を追究している努力に敬意を表したい。

ただ一方で、まず、ALPS処理水海洋放出を全面的に支持している点について、情報災害に関する本書の主張からただちにこうした結論が導き出されるものではないことには気になった。今回の海洋放出が安全性の面で通常の範囲の処理であることは分かるが、合意形成の手続きの問題もあるからだ。おそらく著者は、多くのタンクが立ち並び増殖していく状況にも福島県民として忸怩たる思いがあるのだろう。著者は、マスコミ報道にある放出反対派の漁民はもっぱら風評被害だけを心配するものと位置づけているようであるが、いずれにしても、福島県民の声がまずは第一であること、また政府やマスコミは風評被害に対する対策にも責任をもたなければならないことは、著者の主張のとおりである。

このこと以上に気になったのは、この本は、放射性物質による「直接的な」原発の健康被害はなかったとしていて、僕もその認識には反対しないのだが、現在廃炉作業が続いていて、これからも長く続かざるを得ないという事実についてはまったく触れていないことである。帰還困難区域もなくなったわけではなく、事故によって情報災害のほかに何も起こらなかったというわけではない。林さんの主張自体にはものすごく納得するのだが、ある種の原発推進派(あるいは事故責任の軽減)に都合良く利用されてしまっては、「反原発派」による風評被害拡大に対する反動として、今度は逆方向に行き過ぎてしまう。もちろんこれら「被害」の強調が、現在の福島における生活が危険であるかのように認識されては問題であって、著者の主張を受けて言えば、自然災害発生時も含めた廃炉作業の安全性や、帰還困難区域の解除計画について、みんなが冷静に認識ができるように、現実面でも情報面でも環境を整えていくべきということではある。

さて、情報災害の台頭については、次のような指摘が興味深い。

「特に現代社会において「情報災害」が多発する要因は、人々にとっての「信頼性を担保する存在」の不足と、それを補うための「救い」が多様化したことにもある。情報化社会かつ人権意識が高まり、「救い」も多様化した社会においては、誤った情報伝達の多くは、「正確な認識(Correctness)」あるいは「救い」と信じられ、共有された独善や正義によって行われる。それらが「情報災害」の発生や維持・長期化を支えている」(272-273)

「フクシマ恐怖神話」の批判など、たとえとして宗教関係の言葉が頻出する。

「東電原発事故から11年経ってもデマや「ほのめかし」を繰り返し、自分達の「予言」の成就を待ち望んでいるかのような人々は、たとえ彼らの内心にどれだけの「正義」があろうとも、もはや「カルト」と見做すべき存在なのだ」(276)

これだけ現実的あるいはヴァーチャルな社会空間の分断が進んでいる現在、「カルト」という言葉については、もはやこれをいったん宗教から切り離して、「宗教的カルト」と「非宗教的カルト」という区分を立てた方が適切なのかも知れないという発想を得た。

[J0413/231017]