松浪信三郎訳、人文書院、1951年。

第一部 無の問題
 第一章 否定の起原
  Ⅰ 問いかけ
  Ⅱ 否定
  Ⅲ 無についての弁証法的な考えかた
  Ⅳ 無についての現象学的な考えかた
  Ⅴ 無の起原
 第二章 自己欺瞞
  Ⅰ 自己欺瞞と虚偽
  Ⅱ 自己欺瞞的な行為
  Ⅲ 自己欺瞞の〈信仰〉

緒論につづく第一部では、無の問題が扱われる。

例として「キャフェにおけるピエールの不在」を論じる筆致は、さすがのサルトル。「まさしくピエールはそこにいない。このことは、その店の一定の場所における彼の不在を私が発見する、という意味ではない。事実上、ピエールはそのキャフェ中のどこにもいないのである。彼の不在は、そのキャフェを消失状態に凝固させる。キャフェは背景としてとどまるにすぎない。・・・・・・」(I:77)、云々。

無の捉え方について、まずはヘーゲルのそれを取り上げて、批判する。サルトルの理解によれば、ヘーゲルの思想においては、存在は本質によって包まれており、この本質が存在の根拠であり根原であるとされている(84)。存在と無とは、相反する存在として、論理的な同時性のもとに考えられているが、サルトルは「存在は存在し、無は存在しない」として、これを否定する。

一方、無を、そこから存在が生じてくるひとつの根原的な深淵と捉える見方も、サルトルはこれを否定する。ハイデガーはヘーゲルより進んで、無を存在を全面的にとりかこみながら、それと同時に存在から追放されたものとして理解している。しかし、サルトルの見方では、存在は無に先行し、無を根拠づけている。「無が存在につきまとう」のであり、「非存在は存在の表面にしか存在しない」のである(90)。あるいは「無が与えられうるのは、まさに存在のふところにおいてであり、存在の核心においてであり、一ぴきの虫としてである」と表現されている(101)。

サルトルは、さらに無の説明を続ける。「「無」は存在するのではない。「無」は〈存在される〉のである」(104)。無が〈存在される〉のは、存在によってである。ここで、自由ということが主題に上ってくる。自由こそが、無のあらわれを条件づけている。「われわれが自由と呼ぶところのものは、〈人間存在〉の存在と区別することができない。人間はまず存在し、しかるのちに自由であるのではない。人間の存在と、人間が〈自由である〉ことのあいだには、差異がない」(110)と、この第一部ではやや予告的に述べられる。

重要なことは、人間存在が世界から自己を引き離すことができることである。たとえば心像(image)である。「心像が心像として成立するのは、その対象をどこか他のところに存在するものとして、あるいはそもそも存在しないものとして措定することによってである」(112)。ここには、世界の無化(心像の対象があるべき世界はここではない)、心像の対象の無化(心像は眼前には現れていない)、心像それ自身の無化(その対象はここにはない)が含まれている。したがって、サルトルにいう無化とは、哲学的人間学でいうところの、脱中心化の概念に近い。

そしてまたサルトルも、人間的自由にかかわる事柄として、恐怖に対する不安という話題を取りあげる。「不安は、自由そのものによる自由の反省的把握である」(138)。ここから逆に、こんな言い方もしている。「不安は、諸価値を世界から出発してとらえ、諸価値の擬物的固定的な実体化のうちに安住している「くそまじめな精神」とは正反対のものである」(138)。

第二章の冒頭では、ここまでの議論を総括するかたちで、「意識とは、それにとってはその存在のうちにその存在の無の意識があるような一つの存在である」と言われる(151)。人間は、不断の否定として自己を構成し、それによって「否」を自己の主観性そのもののうちに持しているとされる。こうして、人間が自己に対してこうした否定を差しむける態度のひとつとして、自己欺瞞が取り上げられる。無に関わる作用をたどるなかで、最終的には、「誠実の目的と自己欺瞞の目的とが、さして異なるものではない」(191)とさえ言われる。誠実も自己欺瞞も、自己や世界をひとつのかたちに固定的に対象化するところで、必然的に無をはらむ存在の根本的あり方(サルトルは反射という言葉でも表現している)からずれを生じるのである。自己欺瞞とは人間にとって不断の脅威とされているが、これを言い表す「われわれは、眠りにおちいるようなぐあいに自己欺瞞におちいるのであり、夢みるようなぐあいに自己欺瞞的であるのである」(197)というサルトルの表現は、なんと魅力的なことか。

自己欺瞞の議論は主に自己が相手の事柄であるが、途中、重要な他者論も登場している。サルトルはこの洞察をフッサールに帰しているが、「私の意識は根元的に他者にとってはひとつの不在としてあらわれる」(183)。私の態度や行為の意味はつねに現前するが、私の意識は他者にとって不在的な対象である。こうして、「他者の意識は、それがあらぬところのものである」と言われる(184)。

サルトルの言う存在とはもっぱら人間存在を指しており、しかもその存在は意識の存在であり、意識の作用であると言えそうである(対自としての存在)。こうしてサルトルにおける存在とは、人間存在とそれ以外の存在に加えて、自己の存在=意識と、他者の存在=意識とでは、その存在を論じるのに別のしかたが求められるのだろう。

サルトルの無論の特徴。サルトルにおいて無とは、否定と重ねあわせられているように思われる。しかし、はたして無と否定は同じものと言えるだろうか、とも問うことができよう。サルトルが無と否定を重ねあわせているのは、彼にとって無とは、それに論理的に先行するものが存在であり、肯定としての存在における否定的契機として無が理解されているからだろう。

[J0333/230205]