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川口有美子・新城拓也『不安の時代に、ケアを叫ぶ』

青土社、2022年。副題「ポスト・コロナ時代の医療と介護に向けて」。

第1回 揺れる倫理観の波
第2回 壊れていくケアの波
第3回 牙を剥くパンデミックの大波
第4回 恐怖と混乱の波
第5回 冷静な反逆の波。そして、ケアを叫ぶ

ALS関連で活動されている川口有美子さんと、緩和ケア医の新城拓也さんの対談。2020年10月、21年1月、5月、8月、9月と5回にわたっていて、新型コロナの状況が予想をこえて変化していった状況のドキュメントとしても読める。おふたりの考えが、実はけっこう噛み合っていないところが、考えるヒントとしてとても有意義。新城さんについては本書ではじめて知ったのだけど、川口さんは、ずっと考えがブレなくはっきりしていて凄い。

何か所か抜粋。

新城:本人の苦痛緩和優先で、病院では家族がどう感じているかなどは、面会が制限されて、病室に普段いないため後回しもしくは無視する状況です。
川口:この感染状況では入院患者に会わせてもらえませんからね。
新城:医療従事者のなかには、本音を言えばむしろコロナ時代に仕事が楽になったひとも多いはずです。病棟にひとが少なくなったからこそ、自分たちのペースで一日を運営することができる。コロナで家族の面会制限を続ける理由は、病院での感染拡大を防ぎ安全第一で運営するためだけでなく、この楽な状態を続けたいためでもあるでしょうね。家族のケアまでしなくていいですから。
川口:面会ができると、家族の鋭い監査の目が入りますからね。(28)

新城:せめて医療従事者は患者さん側に立たないといけないですね。「コロナだからあきらめて、コロナだから仕方ない」と病院側に立って、今までなら非人道的でできなかった面会制限や身体拘束をさっさと決断して進めていくのは本当にまずいことだと思います。(30)

新城:家族の役割は、亡くなるだろう患者にとっては、とても必要な存在です。一方で、面会ができなくなって「やれやれ、よかった」と思っている患者もいるはずです。・・・・・・自分の生活に専念したい家族にとっては、「面会ができないのは、コロナだから仕方ない」と自分の心に折り合いをつけられることになるのです。(31)

新城:私の周りはもう終末期にあって亡くなっていく患者さんで溢れています。ただ緩和ケアを専門としているひとたちは、患者さんは短期間に亡くなっていくというその世界に甘えてしまっていた気がしますね。亡くなるプロセスだけを整備して、洗練させてきたところがありますから。今さら「生きるための緩和ケアを」といっても、その発想が自分自身にもないです。・・・・・・
川口:そうなんですね。ただ死ぬまで「生き方」を一緒に考えるという緩和ケアの発想がほしいです。難病の患者会にも緩和ケア医のアドバイスが必要ですから。(70)

新城:人間が望んだ死に方をするという欲望を果たしていくのは、不老不死の欲望を実現させることと同じくらいナンセンスなものではないかと思うんです。そこまで人間本人の欲望を、死の瞬間まで追究していいのかと疑問に思っています。(92)

新城:ある用語の本質的な意味を隠す際に、ポエム化したりとコード化したりするということが医療現場では横行しています。DNRの他にも、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)なんかもそうですね。患者さんに「あなたは死ぬしかない。覚悟を決めてください」と引導を渡すのは、医療職にとってかなりキツい仕事です。ですから、意味を薄めるようなコード化が行われているわけです。・・・・・・もう一つのポエム化というのは、悪いイメージをもつような行為、状況を詩的な言葉で隠してしまう方法です。例えば、DNRといった蘇生措置拒否による看取りを、「人間は本来自分の力で呼吸を始めた。最期も自分の力で呼吸は終えていく、それは人間の自然な営みなのだ。医者であっても他人がひとの最期を穢してはならない」といった感じです。他にも、「住み慣れた自宅に勝る場所は他にあるだろうか。さあ、最期は家に帰ろう、本来の自分に戻ろう」とかです。(110-111)

新城:この二年くらいコロナに関わって気づいたことは、2019年までは患者さん一人一人の治療や療養に関する選択肢が多すぎたということです。・・・・・・しかし、コロナ禍となった2020年以降はQOLの範囲が突然小さくなっている危機を感じました。多様性の追求以前に、「生きていさえいればそれでいい」といった、貧相で、シンプルな考え方に退行したと思うんです。医療に関しては「患者ファースト」を追究していたわりに、病院機能の制限ばかりが目につくようになり、病院の患者さんのQOLは相当低くなってしまいました。家族と面会できない、外出できないという状況は、入院することと留置場にいることと同等のQOLではないでしょうか。「病院ファースト」の時代に逆戻りしたと感じます。(191)

新城:2020年からは、相当強い面会制限をどの病院もするようになりました。患者の人権を無視するような方向に動き、病人が社会から完全に隔絶される方向に戻ってしまっている。15分間、家族のみ、一人だけの面会は留置所の面会のルールよりも厳しいです。病院が留置所、収容所と化していた時代に戻っているのに、患者側はそれを問題視する方向に動いているとは思えません。みんな従順に仕方ないと受け入れています。2021年秋、「病院は家族であっても面会できない、そういうところだ」ともう常識化しているとすら感じます。(234)

新城:私自身は、QOLは患者さん本人のものQODはご家族など周りのひとたちのものだと思っています。(243)

あれ、印をつけておいたところを書き出してみたら、ほとんど新城さんの発言だった。コロナ関係の発言は数多いが、この本が一番リアルであるように感じた。それほど読んでいるわけでもないけれども・・・・・・。

[J0260/220416]

室井康成『増補版 日本の戦死塚』

副題「首塚・胴塚・千人塚」、角川ソフィア文庫、2022年。原著は2015年出版で、その増補版。

序 章 「首塚」は、いかに語られてきたか
第一章 「大化の改新」と蘇我入鹿の首塚
第二章 「壬申の乱」をめぐる塚
第三章 平将門の首塚・胴塚
第四章 「一ノ谷の戦い」の敗者と勝者
第五章 楠木正成・新田義貞の結末
第六章 「関ヶ原の戦い」の敗者たち
第七章 「近代」への産みの苦しみ
終 章 「客死」という悲劇
補 章 彼我の分明──戦死者埋葬譚の「近代」

現地への訪問も含めて、全国の戦死塚を探究した一冊。全部は挙げられないが、登場するのは蘇我入鹿、大友皇子、平将門、平忠度、平敦盛、源義経、楠木正成、新田義貞、織田信長、石田三成、大谷吉継、小西行長、井伊直弼、近藤勇、大村益次郎、江藤新平、西郷隆盛など。

「正史」では簡単に無視されるだろう、多くの異説も含めた伝承の世界の豊かさに感銘を受ける。大化の改新や壬申の乱の昔でも、伝承があるんだな。記述には冗長さもあるけれど、この本全体が帯びている熱気の反面でもある。巻末には、全国1686例の戦死塚一覧表が付されている。

「同じ戦死塚でもあるにもかかわらず、祟る塚と、逆に人々に霊験を与える塚とが存在するのはなぜだろうか」(285)。「まず、両者の大きな相違点は、祟る塚は、そのほとんどが不特定多数の戦死者の亡骸が一緒くたに埋葬されたと伝えられている点である」(285)。ただ、耳塚や鼻塚は例外であると、著者自身も指摘している。また、客死している例を取りあげて「これらの事例をめぐってさまざまな怪異譚が伝えられるのは、当該の被葬者たちが故郷に帰ることができず、しかも親しい人たちから霊的処遇を受けることができなかったことに対する、人々の憐憫の情感が反映しているためではなかろうか」(289)。この種の考察になるともうひとつ腑に落ちない感じがして、マジレスするならば、戦死塚がある地域文化や歴史的事情――たとえば、その地域で支配的な宗派や独自の民俗心性など――を捨象して祟りの問題を語っているところが大きな欠陥になっているが、追究している問い自体はたしかに重要で興味ぶかい。

より納得できたのは、戦死者の処遇に関する変容の指摘である。「戦死塚からみた鳥羽伏見の戦いの特徴は、勝者と敗者の戦死者が、同一箇所・手法により埋葬されることが、けっしてなかった点である。換言すれば、勝者は味方の戦死者のみを厚遇し、敵はお構いなしという、それまでの日本の戦争ではほとんど聞かれなかった戦死者の霊的処遇のあり方が、この戦いを契機に出現したというわけだ。かつての怨親平等、戦いが終わればノーサイドとする価値観は後退したといえる」(301)。重要な指摘。本書では、意識的になのだろうか、靖国神社の問題には触れていないが、戊辰戦争の戦死者祭祀の問題はそのまま、靖国や英霊の問題に直結する。明治から昭和へ、近代国家としての統一が図られ、国民としての一体性が強調されはじめるその時期に、戦死者祭祀についてこうした「敵/味方」を分断する意識が誕生したという事情は、近代国家の基層にある独特な排他性を示しているように感じられる。

[J0259/220416]

C・ボヌイユ、J=B・フレソズ『人新世とは何か』

副題「〈地球と人類の時代〉の思想史」、野坂しおり訳、青土社、2018年、原著は2013年、改版が2016年。

 序言
第一部 その名称は人新世とする
 1章 人為起源の地質革命
 2章 ガイアと共に考える:環境学的人文学へ向けて
第二部 地球のために語り、人類を導く:人新世の地球官僚的な大きな語りを阻止する
 3章 クリオ、地球、そして人間中心主義者
 4章 知識人とアントロポス:人新世、あるいは寡頭政治新世
 第三部 人新世のための歴史とはいかなるものか
 5章 熱新世:二酸化炭素の政治史
 6章 死新世:力と環境破壊
 7章 貪食新世:地球を消費する
 8章 賢慮新世:環境学的再帰性の文法
 9章 無知新世:自然の外部化と世界の経済化
 10章 資本新世:地球システムと世界システムの結合した歴史
 11章 論争新世:人新世的な活動に対する1750年以来の抗議運動
結論 人新世を生き延び、生きること

「人新世」について知ろうと、概説書のつもりで手に取ったが、この書自体が重要でオリジナルな思想史的研究だ。「人新世」概念提唱の書ではもちろんあるのだが、ただちに批判的な検討も加えている。僕流にパラフレーズするなら、マックス・ヴェーバーとジェームズ・ラブロックを真剣に総合させなければならないということ。この本を手がかりに、この方向に思想を深めていこうと啓発された次第。

「人新世」という言葉は、オゾン層研究でノーベル賞を受賞した大気科学者パウル・クルッツェンが提案して一般化したものらしいが、ちょっと調べると、その前に用いた人物もいたはいたらしい。

「もし数百年後にその時代の地質学者が我々の時代が残す岩石化した堆積物を調査することがあれば、彼らはそこに急激な転換を見いだすだろう。それは我々の時代の地質学者が地球の数十億年の歴史の中に生じた急激な転換、例えばよく知られた白亜紀から第三紀への推移、すなわち六五〇〇万年前に隕石が現在の中央アメリカに衝突し、地球上の生物種の四分の三の消滅へ導いたときに形成された転換と同じくらい顕著で急激なものとなるだろう」(29)。

人新世という認識は、分断された自然と社会を否定する。「そして、わずかな修正を加えるだけで経済システムは永遠に発展を続けるという期待に疑いを投げかける。環境に代わり、今や地球システムがそこにある」(37)。

「我々は人間と自然の和解という、政治の下位にある平和主義的な問題系の中にいるのではない」(45)。「人新世は政治的」なのである(45)。自然と人間に関する近代的な認識は誤りである。「要約すると、物理的な自然科学がその研究対象となるものの性質と客観性の概念を踏まえ、自身を非人間的なものだと主張する一方で、人間社会科学は自身を非自然的なものとみなし、自然決定論から自らを切り離すことが人間の成り立ちに固有のものであると考え、「社会」に完全なる自己充足性を与えた。・・・・・・このような構造が、ペーター・スローターダイクが「舞台裏の存在論」と呼んだ、社会的なものが自然に関与していることを隠蔽する仕組みとなったのである」(51-52)。問題視すべきは「人間例外主義」である(60)。そしてまた同時に、「人新世学者は大文字の〈自然〉、すなわち人間に対し完全に外部的なものとして見られていた自然の死を宣言することが可能になった」(112)と言われる。

人新世概念は、従来の近代化論の見直しを迫るものであるが、ボヌイユとフレソズはとくに、産業革命以降あるいは二次大戦後の動向を、それが「大加速」の時代であることを認めつつも、決定的転換点を見ることを強く批判し、人新世がずっと長期的な変動であることを主張する。「結論として言えるのは、一九四五年以降の地球システムに対する人間影響の深刻さと規模の変化が明白なものであるとしても、曲線の傾斜は歴史的時代や地質時代の始まりを決定づけるには事足りず、ましてや歴史的な因果関係の説明に取って代わることができるほどに十分な要素だとは言えないということである」(78)。

ボヌイユとフレソズは、フーコーの生-権力概念になぞらえて、「知-権力」という概念を提示する(115)。「生命に続き、同時に知(地-知識)と統治(地-権力)の対象になるのは、岩石圏から成層圏までを含む地球すべてである」(116)。

「我々の世代がはじめて環境異常を認知し工業的近代に疑問を投げかけたとみなすエコロジカルな覚醒の語りの問題点は、過去の社会においても存在していた省察を徐々に消し去ることで人新世の歴史を非政治化することにある」(212)。「したがって、人新世の歴史が立脚すべきなのは、自然の問題が考慮されていなかったために不注意から環境破壊が生じてしまったということではなく、近代人が環境に対する賢慮(ギリシャ語ではフロネシス)を有していたにもかかわらず環境破壊は起きたという、頭を悩ませるような逆説的事実でなくてはならない」(213)。ほんとにそうだ。古典的な啓蒙・啓発モデルは根本的な解決をもたらすようにみえない。「人新世の諸社会が環境を破壊したのは、不注意からでも自らの行動の結末に対する考慮の不在からでもない。それどころか、人々はときに自らに環境にもたらす影響に恐れ慄くことすらあった。そうであるならば、我々は前章で確認したような環境学的文法を有していたにもかかわらず、どのように人新世に足を踏み入れたのだろうか。これに関して近年、科学史や科学社会学の分野で発達したのが無知論(アグノロジー)と呼ばれる研究領域である」(244)。きわめて興味を惹かれる論点だが、本書第九章は期待した「無知論」の記述になっていない。自分で調べないとと思って引用文献をみたら、あれっと。Robert Proctor の本は、机の脇に未読の状態で長年積んであるやつ。

「経済の脱物質化」。「現代のスタンダードな経済学理論は物質に対し、ごく僅かな関係しか持たない。それは財産の持つ有用性や心理学的効果については考慮するが、物質的な特徴については考察しない。そして、資本は具体的な生産装置の総体としてではなく、金融的な流れを生み出す資産であるとみなされている。このような脱物質化は人新世の時代の指数関数的な経済成長を自然とみなすことを可能にし、経済をあらゆる物質的基盤から断ち切ったのである」(256)。諸富徹『資本主義の新しい形』などに示される「資本主義の非物質的転回」論はそれはそれでおもしかったが、ボヌイユとフレソズは、経済の脱物質化をもっともっと長いスパンでの傾向として捉えている。経済の脱物質化は、世界を経済化し、自然環境を経済化することで、人間が世界や自然を完全に制御しているという幻想と結びついたのである(269)。

産業革命以降の大加速を相対化する論調のわりに、フランス人らしく(?)、その時代におけるイギリスの悪行ないし「生態学的債務」を強調しているのがちょっとおもしろい。

付記、26ページの「大洪水」のグラフ、Will Steffenの元論文にあたっても、このグラフだけ見あたらない。ボヌイユらが足したのか、邦訳で足されたのか。どうも怪しい情報。

[J0258/220414]