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田中康弘『山怪』

ヤマケイ文庫、2019年、原著2015年。

序文
Ⅰ 阿仁マタギの山
狐火があふれる地/なぜか全裸で/楽しい夜店/生臭いものが好き/狐の復讐/見える人と見えない人/狸は音だけで満足する/消えた青い池/人魂、狐火、勝新太郎/親友の気配/辿り着かない道/蛇と山の不思議な関係/汚れた御札/マタギの臨死体験/叫ぶ者/白銀の怪物

Ⅱ 異界への扉
狐と神隠し/不死身の白鹿/来たのは誰だ/もう一人いる/道の向こうに/響き渡る絶叫/僕はここにいる/謎の山盛りご飯/山塊に蠢くもの/鶴岡市朝日地区/出羽三山/鷹匠の体験/奈良県山中・吉野町/
ツチノコは跳び跳ねる/足の無い人/只見町/山から出られない/
行者の忠告

Ⅲ タマシイとの邂逅
帰らない人/死者の微笑み/迎えに来る者/ナビの策略/椎葉村にて/
テントの周りには/宮城県七が宿町/なぜか左右が逆になる/不気味な訪問者/奈良県天川村/帰ってくる人/固まる爺婆/お寺とタマシイ/
飛ぶ女/帰ってくる大蛇/呼ぶ人、来る人/狐憑き/真夜中の石臼/
狐火になった男

山の不思議に関する話を集める。昔風でもあり今風でもあるところ、「○○の見間違いだよ」と、「そんなことはありえない」という人たちの談話もそのまま載せているところもおもしろい。

たしかに、単純に狐狸妖怪のたぐいを信じる心性は薄くなったとしても、山の中でときに感じる威圧感や不思議な空気があるかぎり、この種の話はある種のリアリティを持ちうるだろう。

筆者は言う。「山に住んでいていも、不思議な体験はまったく無いし聞いたことも無いという人に何人も会った。世の中に不可思議など存在しない。すべては説明がつくことしかないと断言する人もいた。しかし、その人たちと話をしていると、疑問に感じることはいくらも出てくる。例えば狐火など謎の光は〝何かが反射した〟〝それは蛍だったのだろう〟〝ヤマドリが光ったから〟〝実は俺〟と各々に答えを出している。とはいえ条件が季節的にまったく合わなかったり、物理的に無理だったり、いくら何でもその説のほうが変だ!と言わざるを得ない場合が多々あった。これはその人たちは実は起こったことに一番納得していないのだと思う」(280)。

もちろんこのように、どちらかといえば怪異肯定側なんだろうけども、怪異否定論者の語りを頭ごなしに否定をするわけでもない筆者の書き方は好きだな。「怪異はない」「怪異はある」と、どちらとも言い切れないところに、そのようなあり方において、怪異はある。

[J0254/220326]

吉田文久『ノー・ルール!』

副題「英国における民俗フットボールの歴史と文化」、春風社、2022年。

序章
第1節 問題の所在と目的  
第2節 フットボール研究の前提
第3節 これまでの民俗フットボール研究
第4節 本書の構成

第1章 民俗フットボールの消滅と存続
第1節 消滅した民俗フットボール
第2節 英国に存続する民俗フットボールの実態
第3節 消滅、存続する民俗フットボールの多様性の意味

第2章 存続する民俗フットボールの変容
第1節 存続する民俗フットボールの変容内容
第2節 存続する民俗フットボールをめぐる状況の変化
第3節 存続する民俗フットボールの歩んだ変容の方向性

第3章 カークウォールのバー・ゲームの民族誌
第1節 カークウォールの概要
第2節 カークウォールのバーの起源と歴史
第3節 カークウォールのバーのゲーム概要
第4節 カークウォールのバーにみる伝統の継承と発展
第5節 カークウォールのバーの意味変容―伝統行事からコミュニティ統合の活動へ
第6節 カークウォールのバーの存続

第4章 民俗フットボールの存続・継承の現代的意義
第1節 民俗フットボールの存続・継承の文化・社会的解釈
第2節 現代スポーツへの発展的提起
第3節 民俗フットボールの存続・継承の教育的意義

終章
第1節 研究の成果
第2節 研究の今後の展望

イギリスの地域に点々と残るお祭りとしてのモブ・フットボールの調査研究。もっとも、モブ・フットボールとはそれを抑圧する側の呼称だったとして、本書ではこれを「民俗フットボール(folk football)」と呼んでいる。

現在、17ヵ所で民俗フットボールが生き残っているそうだが、筆者は20年以上をかけてそのすべてを見学したというから凄い。一番力を入れて調査をしているのは、第3章で扱っているカークウォールの「バー・ゲーム」だが、カークウォールといえば、イングランドに対しては田舎であるスコットランドの、それも最北端の離島。日本でいえば利尻島みたいな。

おもしろいのは、今日では民俗フットボールの方が、近代的なタイプのスポーツよりも、良い意味での「自己規律」が機能しており、暴力のエスカレートが防がれているとの見方。「近代スポーツではルールが厳格され、ゲームの制御が審判に任される分、プレーヤーの自己規律は重視されず、相手を打ち破ろうとする競技性、あるいは争覇性の強い世界が展開されているのである」(148)。対して、「同じコミュニティの住民が競い合う今日の民俗フットボールでは、暴力は内在的な自己規律によって制御され、ゲームを通してコミュニティの結束が重視される。そこでは、ゲームは、地域社会の統合や住民のアイデンティティの涵養に結びつく共同体的な行事を志向しているのである。それに対して近代スポーツにおけるゲームには、ある意味で異なるコミュニティ間で争われた近代以前の民俗フットボールと似通った状況がある」(148)。つまり、今日の民俗フットボールには、相手に対する配慮や暗黙の了解が働いているということで、暴力性のレベルはちがっても、あるいは近代以前もそうだったかもと想像したくなる(死者は出たのだろうけど)。もっともここは、別の用法もある「自己規律」という言葉じゃない方が良いと思うけど。

次の指摘も。「民俗フットボールの最盛期は、定説ではそれらの多くが消滅したといわれる産業革命後の19世紀末であった…」(304, cf. also 152)。その根拠は、中房敏朗による歴史研究で、背景や理由等は論じられていない。

民俗フットボールの多くは、告解火曜日に開催されてきた。それはもともと、非キリスト教的なこの行事を、できるだけキリスト教化しようという目論見かららしい。カークウォールの場合は、クリスマスと元日に開催するとのことで、今度はそれが、通常のやり方でクリスマスを祝いたい人たちの不興を買ってしまって、存続の妨げのひとつになっているのだとか。

それにしても今は、YouTube であれこれ関連映像を眺めながら、この種の本を読めるのが楽しい。

[J0253/220325]

五来重『先祖供養と墓』

角川ソフィア文庫、2022年。もとは角川選書として、1992年出版。

第1章 古代の殯―凶癘魂と鎮魂
第2章 殯の種類―殯の残存形態
第3章 葬墓と仏教―寺院と葬墓文化
第4章 中世の葬墓―念仏と浄土教
第5章 近世から現代の葬墓―墓と葬具

もとは講演録かなにかなのか、語り口調で、民俗の世界と仏教の世界を縦横無尽に行き来しながら「五来史観」が示されていて、著者の学問の真髄をよく知ることのできる一冊。著者の博覧強記ぶりはさることながら、まだまだ民俗的事象が生きていた時代だから成立した学問のあり方だとも思う。「私は歴史的には一種のオプティミズムがあって、必ず分かるという自信をもっています」という姿勢も、今はなかなか保つことが難しい種類のものだ。

著者は、日本の葬送史の「主発点」に、風葬とそれにともなうモガリを置き、古代の文献にみえる葬送や、全国の両墓制、あるいは沖縄の風葬といった事象をその展開として理解する。たとえば、法隆寺夢殿は八角円堂という形態からして廟や霊屋であり、モガリの形を踏襲した聖徳太子の廟なのであると主張しつつ、梅原猛の太子怨霊説を斥ける(82, 86)。

著者の理解では、もともと仏教は霊魂を認めないはずが、「日本仏教は仏教の誤解から出発し」(105)、仏教が死者の霊の供養に働く場を得たのだと。同時に著者は「葬式は非常に大事な仏教の宗教活動の中心になります」(107)と葬式仏教の価値を肯定して、「人の嫌うものをすることが宗教者です。霊の実在を信じている庶民のほうが葬式に非常な重要性を認めて、僧侶が葬式の重要性を認めないと、だんだん葬式は精神を失ったものになっていくと思います」(106)と断言している。

たくさんの情報を駆使しながら、はっきりした著者の見解が示されていて小気味よささえ感じられる書となっている。

[J0252/220319]