Page 94 of 184

フランソワーズ・カシャン『ゴーギャン』

高階秀爾監修、田辺希久子訳、創元社、1992年。「知の再発見」双書シリーズの一冊、副題は「私の中の野生」。著者のフランソワーズ・カシャンはオルセー美術館の館長を務めた人だそうで、原著は1989年。

第1章 遅い出発
第2章 ポンタヴェンの神話
第3章 ゴーギャンとゴッホ
第4章 タヒチ讃歌
第5章 モンパルナスの孤独
第6章 情熱の最後の輝き
資料編 失われた楽園を求めて

「小泉八雲にとっての日本は、ゴーギャンにとってのタヒチのようなもの」という思いつきが自分で気に入って、改めてこの本を手に取ってみた次第。ゴーギャンは1848年生まれ1903年没、ハーンは1850年生まれ1904年没で、まさに同時代人でもあった。

類似点。どちらも、ヨーロッパ文明に違和感を抱いていたところ。出自からして、放浪への志向があったこと。(彼らの理解するところの)アルカイックなものに惹かれていたこと。ゴーギャンはブルターニュも愛していたようで、どちらもケルト文化との親和性を示していたこと。マルティニークも、ふたりに共通したゆかりの土地。

相違点。ハーンは、彼のルーツのひとつであるギリシャ文明にしばしばインスピレーションを得ていたが、ゴーギャンはそれを嫌っていたらしいこと。ゴーギャンが堂々とした、あえて傲慢な態度を取るようなタイプの人だったこと。ハーンは子どものときから肉体的なハンディの多い人だったのに対し、軍隊生活の経験もあるゴーギャンは、健康を害するまでは逞しいタイプだった様子がある。

ゴーギャンの作品や生活には、セクシャルなモチーフが多いのも特徴的。ゴーギャンはタヒチでの幼妻をはじめ、身近な女性を多く絵にしている。一方のハーンは、理念としての愛を哲学的に語ったり、再話作品に愛の悲劇をよく取りあげてはいても、たとえば妻セツに対する賛美といったものは、管見のかぎり読んだことがない。なお、実生活における愛妻家ぶりについては、いくつもエピソードが残されている。ハーンが持っていたプラトニック・ラヴへの志向は、彼が日本におけるある種の近世文学(武士の物語など)とよく馴染んだ理由でもありそうだ。ハーンの場合、女性のイメージとはまずなによりも、母であった。対してゴーギャンは、暖かい家庭を築くタイプからはほど遠かった。

ゴーギャンが結局、タヒチにも安住することができなかったのに対して、ハーンは日本に帰化し、当地を終の棲家とした。「小泉八雲にとっての日本は、ゴーギャンにとってのタヒチのようなもの」。そこにヨーロッパが失った、郷愁を帯びたユートピアを認めたという意味では、このように言えるのではないか。ただ、彼ら二人が歩んだ実際の人生においては、それぞれの土地の意味はかなり違っている。幻視家であった八雲の作品が日本文化の「再話物語」になりえているのに対し、ゴーギャンによるタヒチの絵画のほうが、なにか浮遊感のある幻想画のようにみえるのは、彼らがそれぞれの土地に実際に根を下ろすことのできた度合いのちがいを反映しているのだろう。

[追記]
画家のゴーギャンには「カトリック教会と近代」「近代精神とカトリシズム」という教会批判の原稿があり、その一部だけは『オヴィリ』(みすず書房)に収録されている。彼もまたキリスト教そのものというより、教会の「超自然主義」や道徳の押しつけを拒否していること。彼のタヒチにおける「不道徳」は、反教会や反宣教師の精神と結びついていた。

『オヴィリ』編集者ダニエル・ゲランのコメント。「ゴーギャンは、予言者たち、福音書の著者たちの特殊な表現の中には、多かれ少なかれ蔽いかくされている象徴乃至たとえだけを見るべきだ、という考えを抱いていた。これに反して教会は、不合理にも文字通りにとったため、それを馬鹿げたものにしてしまったのである。一方、彼は、《神を殺そう》とした後、ティヤール・ド・シャルダンに先立って、教義の垢を洗い落としたキリスト教と、近代の進化論ならびに民主主義とのあいだに、綜合を見出そうと試みている。他方、聖職者至上主義に対する彼の痛烈な非難は、彼を――これは読者にとって、小さからぬ驚きであろうが――無政府主義的、反国家的な結論へ、ブルジョワ道徳の悪罵へとみちびいた」(203)。

『オヴェリ』の抜粋はごく短いので明瞭には分からないが、ゴーギャンでも進化論への傾倒があるというのは興味ぶかい。そしてその進化論的発想が、どのようにタヒチへの想いと繫がっているのか。「ハーンの日本、ゴーギャンのタヒチ」問題(?)、この観点からでも掘りさげられそうだ。

[J0251/220315]

青木美希『地図から消される街』

副題「3.11後の「言ってはいけない真実」、講談社現代新書、2018年。

序章 「すまん」原発事故のため見捨てた命
第1章 声を上げられない東電現地採用者
第2章 なぜ捨てるのか、除染の欺瞞
第3章 帰還政策は国防のため
第4章 官僚たちの告白
第5章 「原発いじめ」の真相
第6章 捨てられた避難者たち
エピローグ

1.本書の内容から

福島原発事故に関わる被災者支援や除染作業、原発政策、さらには被災者いじめをめぐる学校の「欺瞞」の数々を直接取材を通して明らかにする。報告の全体を通して、改めてこの問題の深刻さと、日本の政治や社会が抱える問題体質を痛感する。以下は部分部分で、改めて気づきのあった点。

表面的な復興を語りたがる帰還政策について、住民からの声。「せめて第一原発からデブリが取り出せた後で復興を考えたらどうか」(118)。

原発を密集させることの危険。「福島第一原発では1~4号機が密集していたため混乱し、爆発が続いた。福島第一原発の事故時は吉田昌郎所長も被害日本壊滅を意識したほどだ。密集していると事故時のリスクが何十倍にもなる」(127)。

それから、やはり原発推進政策の裏には、核武装という政策的狙いがあることは明らかだと言うことが分かる。著者が取材した原子力ムラに関わっていた専門家の話によると、国が核武装をすると決めれば、一年以内にはできるとのことだ。

政府が東電を守る理由、原子力損害賠償法。これの免責事項(異常に巨大な天災地変)を適用すると、国に賠償責任が生じる。それで、経産省が「東電を守るので免責事項に当たると言わないように」と密約をしたという話。がれき撤去による放射性物質拡散も、この論理からうやむやにされたと推測されるとのこと。

2.ジャーナリズムの社会的意義

さて、直接この本の中に書かれていることではないけど、新聞記者としてデスクとやりとりをしながら取材を進めていった様子が記されており、新聞をはじめとするジャーナリズムの社会的意義というものがこの書には示されている。地道な取材に基づき、政府や行政の闇を暴くこういった告発は、ネット上のメディアだけでは、少なくとも今のところは不可能ではないか。

(と思って、青木さんの名前を検索してみたら、朝日新聞社内で左遷されて記事を書けなくなったとかなんとか。)

3.現在の情勢から思うこと

原子力発電所の危険性については、2011年以前も決して「予想外」であたわけではない。大事故の可能性も、理論上は薄々知りながら、同時に「絶対安全」のかけ声になんとなく乗っていたのだ。今回のロシア軍によるウクライナの原発への攻撃で、また同じことが起こっていると感じる。私たちは、原発への攻撃やテロがありうることを薄々知りながら、「でも実際にはだいじょうぶ」と、本気にしてこなかったのではないか。そしてその「スルー」の構造は大地震や噴火の可能性にも当てはまる。どこかの火山が噴火して日本各地に存在する原発のどこかに被害が生じたときに、私たちはまた、「まさか噴火するとは」とつぶやくのだろう。

もうひとつ、「危機」というものが一瞬で経過する大爆発やカタストロフィとイメージされすぎており、原発の問題では特にそうだ。本書では、福島原発から放射性物質が漏れ出しつづけている様子が描かれているし、頑強な反・反原発主義の人でも、今現在も溶解した核燃料が、近づくことも移動させることもできずに「そこにある」ことは否定できないだろう。実際にこれが「安全な日常」と言える状況だろうか。同様に、「復興」が語られる今も、少なからぬ被災者たちの生活は「安全な日常」からはほど遠いということが、本書には示されている。

震災の話その他から気づいたことは、危機とは必ずしも危機と意識されることがなく、感覚の麻痺を伴いながら、じわじわと日常を蝕むようなあり方をするものだということだ。絶対にあってはほしくないが、これからウクライナの戦争が拡大・飛び火していったら、2022年3月という今現在の、日本を含むこの世界が、すでに「戦時下」にあったということがはっきりするだろう。

(どうもしかし、こうやって記事を書いていると「どうせこうなる」調になってしまう。もちろん、なんとかしたいのだ。)

[J0250/220312]

鳥谷芳雄『歴史の風景を読む』

報光社、松江文庫、2021年。

第一章 庶民信仰のある風景
 1 湖水がひろがる出雲:中近世の旅日記から
 2 ある道しるべと水難供養塔
 3 宍道湖をめぐる二つの水難供養塔:近世庶民信仰の動向と水運との関連で
 4 続・宍道湖をめぐる二つの水難供養塔:ふたたび文化11年の遭難事故から
第二章 六十六部のいた風景
 1 六十六部廻国という巡礼
 2 島根における近世六十六部廻国:出雲三十三札所巡りも絡めて
 3 出雲市にある近世六十六部施宿供養塔:同塔建立の全国的な傾向も絡めて
 4 出雲・石見・隠岐における近世六十六部廻国の様相
第三章 弁慶伝説のある風景
 1 出雲地方の弁慶伝説(1)
 2 出雲地方の弁慶伝説(2)
 3 史料からみた出雲地方の弁慶伝説(1)史料の時系列化
 4 史料からみた出雲地方の弁慶伝説(2)近世初期の史料を幸若舞曲との関連で考える
第四章 社寺建築のある風景
 1 出雲地方の居並ぶ神社建築:近世社寺建築の面白さ
 2 二つの小さな近世社寺建築:組物を凝らし彫刻で飾る
 3 出雲大社のいま一つの本殿設計図:寛文度造営時にみる二つの方向性
 4 古建築文化財への関心と変わらぬ思い
第五章 大般若経のある風景
 1 経典類から知られる島根の歴史・文化
 2 島根県下の二つの紺紙装飾経:歴博本神護寺経と右田家本妙法蓮華経
 3 鰐淵寺の紺紙銀字華厳経:文禄の役に伴う渡来品
 4 高野寺と中世大般若経

リアルな書店にいくとついつい買ってしまうのは郷土本。アマゾンだとなかなか目に入らないし、そもそも売っていないものも多い。とくに島根は、その歴史や文化の深さに応じて、レベルの高い郷土史が多い。著者は、県立古代出雲歴史博物館で学芸員もされていた方で、本書でも多くの史料を渉猟。

[J0249/220310]