飛騨考古土俗学会『ひだびと』第11年第2号、1943年、pp. 27~28。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1491932/1/15

村下とは、たたら製鉄で責任者として総指揮を行う職人。1943年当時の雲伯地方では、8~9名が生き残っていたとのこと(89人ではないと思うが)。たたら製鉄は大正時代に一度消滅するが、戦時下にまた復活操業が行われる、そのときの話。

「「村下」は従つて会社にとつて、絶対必要な存在なので随分大切にする、山男に不相当な程の高給を支給する、しかも会社の宴会などには社長より上席に据はる、其の上食費は一切会社持ちである、ところが朝から刺身が入り魚の向付を要する、晩酌は言はずもがなである」(28)・・・・・・といった調子の記述が続き、「会社に取つては頗る厄介な存在」であると。

こうして困った「八雲製鋼会社の井原専務」は、各種の伝統を破って、玉鋼の生産方法を編みだしたのだと。「茲に二千余年に亘り秘められた「村下」の技術の伝統をも打破して、茲に戦時下軍刀資材の増産に邁進している。斯くて「村下」は、現在の八九人を最後として、此の世から姿を没することとなつた」(28)。

誇張もありそうだけど、はじめて聞く興味深い話。なお、その後実際に村下の伝統は絶えかかった時期もあったが、現在は、木原明さんとその弟子の方がその火を保っておられる。

[J0400/230912]