Author: Ryosuke

樋泉克夫『「死体」が語る中国文化』

新潮選書、2008年。上田信『死体は誰のものか』に紹介されていたので、その流れで一読。著者は、香港や中国本土、東南アジアでの滞在経験も豊富な様子。死体の扱いをめぐって露骨で残酷な場面も記述して、ハードボイルドな印象すらある。なるほど、日本とは死体や埋葬に関する感覚がまったくちがうのだな。

第1章 香港での出会い
第2章 故郷と棺と骨へのこだわり
第3章 市場経済の時代に
第4章 無告の民と匪賊
第5章 死体の政治学
終章 東華義荘、ふたたび

印象論も印象論として。ここのところずっと、中国の新しい側面に注目する言説が多いような印象のところ、「共産党支配下の裏に隠された、闇に満ちた中国伝統社会」という本書のテイストは、懐かしい「昭和」的な語り口でもあるが、今読むと逆に新鮮味を感じる。ちょうどいま、民主香港と共産中国本土とのあいだの対立が注目されているが、香港と大陸の文化的共通性の面から昨今の動きを解釈する視線も必要じゃないかと、妄想してみた。

匪賊の残虐行為をめぐる「伝説」について。「百歩譲ってウソだったとしても、こうは考えられないだろうか。つまり、中国人の深層心理にこびりついた有史以来繰り返されてきた殺人ゲームやカニバリズムに対する民族的なトラウマが、なんらかの悲劇や恐怖に突き動かされて無意識のうちに猛烈な勢いで表面に飛びだし、”酸鼻を極めた現場の目撃者”としての発言になる」(126-127)。なるほど。日本軍の中国侵略の話に適用してしまうとかなり微妙な話題になるが、まずは文化論として押さえておきたい。

2007年に出版されたという『死雅』、死に関する中国語表現を集めた辞典として紹介されていて、ちょっと見てみたい。

本書末尾では、中国文化を切った刀で急に、「死が隠蔽され生者のパラダイスと化した現代の日本に生きる我々は、本当の意味で生きていないのかもしれない」と、日本批判に(197)。定型っぽい言い方ではあるけど、でもこれも本当という気もする。

これも妄想、本書では徹底して、中国独特の感覚が述べられているが、中国式の埋葬文化や風水文化に強く影響を受けているはずの沖縄ってどうなんだろうと、改めて考えたりなど。

[J0074/200819]

石井理恵子『英国パブリック・スクールへようこそ!』

新紀元社、2018年。英国好き、パブリック・スクール好きのライターさんが書いた本とのこと、たんに写真集的な本かとおもえば、あれこれの非常に細かな情報であったり、さりげなくパブリック・スクールに批判的な意見も紹介したりと、なかなか密度が濃い。とくに代表的・伝統的な「ザ・ナイン」に焦点を当てる。なお最近は、パブリック・スクールという呼称より、インディペンデント・スクールという言い方のほうが一般的な模様。

第一章 入学まで
第二章 学生生活
第三章 卒業後

たとえば、こんな情報。イギリスの一般的な学校システムの概観。学校ごとの年間費用。制服の細かいルール、おもしろい。衣料品や生活用品の細かな価格。学食のメニュー。学則。それから、ターミノロジーと呼ばれる学校独自の用語。

イギリスだけが、産業「革命」を経験していない、なぜならば、いわゆる産業革命が従来の社会からの断絶を生むことがなく、近世・近代・現代と連続性を保っているから、という発想を述べていたのは川北稔さんだったか? こういう、日本にはないエリート育成システムをみると本当にそうで、しかも国際化しながら伝統を保つことに成功しているように見える。GDPベースの経済指標などでは測れない、イギリスという国の実力を感じざるをえない。

[J0073/200819]

立石泰則『戦争体験と経営者』

岩波新書、2018年。著書の名前に見覚えがあったが、『地方の王国』という地方財閥のルポを読んだことがあったと思い出す。財界の話題のほか、三原脩の伝記でも有名なベテラン・ジャーナリスト。

第一章 戦地に赴くということ〔堤清二、中内功〕
第二章 日本軍は兵士の命を軽く扱う〔加藤馨〕
第三章 戦友の死が与えた「生かされている」人生〔塚本幸一ら〕
第四章 終わらない戦争

戦争体験自体を書きたいのか、戦争体験が経営者に与えた影響を書きたいのか、意図としてはたぶん後者なのだろうけども、たんに評伝が並んでいるといった体で議論としては中途半端。とはいえ、個々の記述には迫力がある。戦争中、それぞれが目撃した場面。わずかなタイミングがわけた運命。それぞれが掲げた「たんなる経営」を超えた理念。

戦争では、生涯のトラウマになるような、その一番悲惨な部分が一般庶民や下層の兵士に押しつけられるということもよく分かる。一箇所だけ引用を、これは戦場ではなく引き揚げの話で、ワコールの川口郁雄の体験。
「朝鮮の釜山から復員のため、最後の連絡船に乗った時のことである。最後の船ということもあって、甲板まで立錐の余地がないほど引き揚げる日本人で埋まっていた。途中でスコールにあっても、甲板にいる人間は動くこともできず、ただただ黙って雨に打たれるしかなかった。連絡船が朝鮮と日本の中間の距離にさしかかったとき、突然、将校や兵隊たちが軍刀や拳銃を次々と海に投げ込み始めたのだ。武装していると、占領軍に銃殺されるという噂が流れたためだった。
「そんなシーンを川口が見ていると、次に老婦人がひとり、海に身を投げたのだった。どうしたことかと思っていると、またひとり、老婦人が脱いだ履き物を揃えて海に飛び込んだ。さらに後に続く老婦人を、誰も止めようとしなかった。
「「普通なら、飛び込んだ海面の回りは船は一、二度回るんですよ。飛び込んだ人を助けるために、ね。でもその時は、そのまま船は行ってしまいました。海に飛び込んだのは、日本に帰っても身寄りがいないのでひとりでは生きていけないからとか、おばあさんですからね。本当のところは、本人に聞いてみないと分かりませんが。悲惨なことになったなあと思いました」
「川口は複雑な思いを胸に秘めて、山口県の仙崎に上陸した」(119)

[J0072/200815]