Month: January 2023

竹田誠二『テイヤール・ド・シャルダン』

聖母文庫、2008年。

1 テイヤール賛歌
2 希望の光 テイヤール神父
3  テイヤール・ド・シャルダンの生涯と進化思想
4 宇宙的キリストの使徒  大いなる生命を宣べ伝えて

キリスト者としての側面を重視した偉人伝。手軽かつ安価に読めるテイヤールの伝記としては便利かな。ところどころたどたどしいところがあったりして、小規模出版物の味。

なお、昨年サービスが大幅拡充された国立国会図書館デジタルコレクションでは、個人送信サービスにて、テイヤールの伝記を含む著作集の多くを閲覧可能(要登録)。
>「テイヤール・ド・シャルダン」@国立国会図書館デジタルコレクション

[J0329/230124]

S. ヴェイユ『根をもつこと』(2)

上・下巻、冨原眞弓訳、岩波文庫、2010年。原著は、副題「人間存在に対する義務宣言のための序論」で、1943年。

「この書にみえる、ヴェイユという人の思想」という面からのノートは、こちらのエントリー。この記事では、第一部で彼女が掲げている、人間の基本的欲求(「魂の欲求」)のリストを取り上げてみたい。このリストは、綿密に論じられているというよりも、かなり荒書きのようであるが、それでも彼女一流のリアリズムに基づいた所論である点で、真剣に扱う価値がある。

そうした欲求として第一部にて挙げられているのは、「秩序」「自由」「服従」「責任」「平等」「序列」「名誉」「刑罰」「言論の自由」「安寧」「危険」「私有財産」「共有財産」「真理」。加えて第二部では、「根をもつこと」がまたそうした欲求として掲げられている。

これら欲求には、対立関係にあるものが含まれている。はっきりしないところもあるが、「自由/服従」「平等(および敬意)/序列および責任・名誉」「安寧/危険」「私有財産/共有財産」となるだろうか。また、「服従」「刑罰」「危険」といった、一見、人間の基本的欲求に対して逆方向に働くようにみえる事柄が、基本的欲求のうちに数えられていることも大きな特徴になっている。

ヴェイユは、欲望と欲求を区別して、欲求には限りがあり、満足がある点で欲望とは異なっているとしている(上 21)。対立関係にある欲求が掲げられているのは、欲求にはそうした満足の限界やバランスがあると考えられているからだ。無限に満たされることが望ましいような欲求はない。このへんに、「理念的」でない、地に足の着いたヴェイユの思想の特徴が現れている。

これらの欲求のリストの前提となっているのは「義務」であり、「永遠かつ無条件」な、人間の義務の内容を明確にするためにこれら一覧が掲げられている。さらに、「敬意が虚構ではなく現実において具体的に表明されてはじめて、義務はまっとうされる。さらに人間の地上的な欲求という媒介をよらずして、この敬意が表明されることはない」(上12)とあるように、「義務」とその具体的形態としての「敬意」が、これらのリストを支えるより根本的事項となっている。

したがって、これらの諸欲求は、「義務」および「敬意」との関係において理解すると、その意味するところが分かりやすい。まず「秩序」は、あれこれの多様な義務の並立不可能性を減じるために必要である。なお、ヴェイユ自身、諸義務の並立不可能性がゼロになることはないと述べている。ただし、諸義務が矛盾して遂行できなかったとしても、それが義務であることには変わりがないとされている。

「自由」ももちろん基本的欲求とされているが、第一のものとされているわけではなく、説明も簡潔である。むしろユニークなのは「服従」で、「服従は魂に必要な糧であり、服従を決定的に奪われた人間は病に蝕まれる」(上 24)のであり、「われわれの時代の人びとはひさしく服従に飢えている」(上 25)と述べられている。このことは、最終的には神からのものと想定されている「義務」の最重要視する彼女らしい思想と言えるだろう。

一方、「自分は有用であり不可欠でさえある存在だという感覚」としての「責任」は、「敬意」との関係が深い。「平等」もまた、たんに社会的・物質的条件にのみかかわるのではなく、むしろ敬意の平等を意味している。「敬意はあるがままの人間に払われるべきであり、敬意に程度の差はないからである」(上 27)。不平等をもたらすのは、量的な差異であって質的な差異ではない。しかし、金銭が唯一の動機や尺度とされ、差異が量化されることで不平等の毒が拡散されることになったと指摘される。

「序列」と「名誉」は、相互に連携してはたらく欲求とみてよさそうだ。「真正なる序列のもたらす結果として、各自は自己の占める位置に精神的な居心地のよさをおぼえるのである」(32)。「名誉」が「敬意」と区別されるのは、後者が万人にとって同一である点においてである。名誉とは、社会・集団・伝統に関わるものである。

「刑罰」という欲求とは、興味深い。刑罰は、犯罪を犯した人間をふたたび「義務の網目」に復帰させる。ただし条件があり、十全な刑罰は、当人がすすんで同意するものでなくてはならない。恐怖に基づく強制の手続きによってはいけない。もちろんここには、ユダヤ・キリスト教的な原罪や償いの発想がちらついているが、それでも、過失について相応の処遇や償いの手段を求める心理が存在することは、示唆に富む指摘だ。

「言論の自由」ないし表現の自由は、「知性にとっての絶対的欲求」だと言われる(上 37)。また、ヴェイユにとって言論の自由とはすぐれて個人的なものであって、集団的言論との関連では、「概念を分かち合う集団」の組織化は闘争を生むとして政党の廃止をすら提言している。一方で、「利益を分かちあう集団」である労働組合については、その可能性を重視している。

「安寧」はよく分かるが、「危険(リスク)」も同時に「魂の本質にかかわる欲求」であると。危険の欠如は、倦怠および、漠然とした苦悩をかきたてると。いやいや、実際、実感のある指摘ではないかなと。

「私有財産」と「共有財産」は、大いに議論がありそうな。私有財産に関して一番分かりやすい例は農業労働者における土地や道具の例で、これらは現存する資本主義と社会主義の双方に対する批判が前提になっているのだろう。

「私有財産」「共有財産」などを「魂の欲求」のひとつと位置づけることについても異論がありうるだろうが、「真理」についても同じように思う。ヴェイユの説明は、人間社会における真理の機能の重要性を述べてはいるが、それが「欲求」であるとはいかなる意味においてなのか、明瞭ではない。

第一部における説明は以上だが、第二部になると、唐突にというべきか、「根をもつこと」が「人間の魂のもっとも重要な欲求」として挙げられて、これをめぐる議論が大々的に展開される。「人間は複数の根をもつことを欲する。自分が自然なかたちでかかわる複数の環境を介して、道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものをうけとりたいと欲するのである」(上 64)。

一覧表の完成度としては低いかもしれない、ヴェイユの欲求論。だが、これらの議論を、現代社会の常識の一部を表現しているマズロー的な欲求論と比較してみるなら、後者の浅薄さがみえてくるだろう。心理学の、人間操作を志向する姿勢。マズローの5段階図式では、上位階層の欲求がオプションのように見えてしまう。そしてどこか抽象的(僕としてはそれを言語化すべきだが、本当は)。宗教的な色彩の濃い「義務」を掲げるヴェイユの議論の方が、その欲求リストにおいては、ずっと「現実的」だ。

[J0328/230123]

S. ヴェイユ『根をもつこと』(1)

上・下巻、冨原眞弓訳、岩波文庫、2010年。原著は、副題「人間存在に対する義務宣言のための序論」で、1943年。

第1部 魂の要求するもの(秩序;自由;服従;平等;序列;名誉;刑罰;言論の自由;安寧;危険;私有財産;共有財産;真理)
第2部 根こぎ(労働者の根こぎ;農民の根こぎ;根こぎと国民)
第3部 根をもつこと

シモーヌ・ヴェイユが衰弱のため、34歳でロンドンで客死する前に残した遺著。純粋な思索の書としてよりも、運動を喚起する「宣言」としての性格が強い文章。また、各部でテイストが大きくちがうことも特徴。

この記事ではまず、「この書にみえる、ヴェイユという人の思想」という面についてノート。この書はいきなり、「義務の観念は権利の観念に先立つ」(上 8)という厳格にもみえる言挙げからはじまる。訳注にもあるように、カントを思わせるこの宣言だが、義務をめぐるヴェイユ自身の思想は、本書の一番最後、編集者が草稿から付けくわえた「補遺」のなかに示されている。――自ら同意した労働と死、とりわけ肉体労働と死こそ、従順という徳の完璧なる形態である。それというのは、労働と死こそ、神が人間に与えた懲罰であり、それを自ら甘受することは、神への従順という至高の善に繫がるからである――このように、ヴェイユは言う。

こうしたヴェイユの義務観念は、内なる道徳律を天上の星とならべたカントとは異なって、まさに「働いて糧をえることで生きる」という生物的・人間的条件に即している。「死と労働は必然に属する事象であって、選択に属する事象ではない。人間が労働のかたちで宇宙におのれを与えるのでなければ、宇宙は糧と熱のかたちで人間をおのれを与えてはくれない」(178)。だからこそ、「芸術、科学、哲学など、肉体労働ならざる人間の諸活動はことごとく、霊的な意義においては肉体労働の下位におかれる」と言われるし(179)、ひいては「根こぎ」が問題にもなるわけだ。

ヴェイユにとって、信仰は人間生活の中心にある。根こぎをもたらしているのは、金銭というかたちですべてを数値化する拝金主義であり、信仰を切り崩す科学万能主義である。フランスにおける教育の非宗教化政策は批判されなければならない。ただし、農村部における司祭や教会の役割を論じるヴェイユの口ぶりには、宗教の必要に関して知識人/大衆を区別する、啓蒙思想家によくある論法がうっすらと感じられるが。

フランスへの祖国愛、愛国心もまた、ヴェイユにおいてはきわめて重要で、義務に属する事柄である。ただし、近代の国民国家と、祖国としてのフランスは異なる。「国家はその行政機能において祖国の資産管理人として現れる」のであり、一般には「無能な管理人である確率が高い」(上 256)。それでも、祖国の存続と平穏という目的に関して、国家への服従は義務であるとされている。

[J0327/230116]

欲求論にフォーカスした別記事「S. ヴェイユ『根をもつこと』(2)」