Month: January 2023

石川明人『宗教を「信じる」とはどういうことか』

ちくまプリマー新書、2022年。

第1章 そもそも「信じる」とは、どういう行為なのか
第2章 神を「信じ」ているとき、人はそれをどう語るのか
第3章 この世には悪があるのに、なぜ神を「信じ」られるのか
第4章 同じ宗教を「信じ」ていれば、人々は仲良くできるのか
第5章 神を「信じ」たら、善良な人間になれるのか

章のタイトルが内容をよく表しており、「神を信じる」ことに関するステレオタイプな誤解を、ていねいな説明でもって解いている点で良書。

以下のコメントは、実際には不可能なないものねだり。

まず、宗教なるものに懐疑的な人が読んだとして、現にいま信じている人の考えについては理解が深まるとしても、「なぜそもそも信じるのか」という疑問は解消しないだろうと思う。もっとも、そんなこと答えられないわけだが、溝は溝としてなんとか説明できないか(これは本書に対してではなく、一般的な課題として書いている)。

本書に対するよりストレートなコメントとしては、宗教を説明しているといいつつ、ほぼすべてキリスト教なんだよね。分量などの問題を度外視して言えば、すくなくとも、宗教としてのキリスト教の特殊性の説明は必要になってくる。とくに、日本における宗教懐疑論者は、日本の神道や仏教の伝統には比較的肯定的な一方で、キリスト教やイスラームの「外来宗教」に対して疑問を投げかけるケースが多い。これも、新書一冊に負わせるにむりがあるのだけど、宗教の民俗的側面・慣習的側面も説明できたらとおもうし、個人主体における信仰だけを扱っていると、いま話題の宗教二世問題も抜け落ちてしまう。

いずれにしても、よくある誤解を相手に宗教を説明していく本書の試みは、これをさらに深めていきたい有益な試み。

[J0326/230107]

A.パーカー『眼の誕生』

副題「カンブリア紀大進化の謎を解く」、渡辺政隆・今西康子訳、草思社、2006年。

第1章 進化のビッグバン
第2章 化石に生命を吹き込む
★第3章 光明
第4章 夜のとばりにつつまれて
第5章 光、時間、進化
第6章 カンブリア紀に色彩はあったか
第7章 眼の謎を読み解く
第8章 殺戮本能と眼
第9章 生命史の大疑問への解答
第10章 では、なぜ眼は生まれたのか

原著は2003年、名前をよく聞いていた有名な本をようやく読んで、そしてやっぱりおもしろかった。

カンブリア大爆発が、視覚を発達させた三葉虫の登場を契機にして生じた捕食関係によって一挙に生じたとする「光スイッチ」説。訳者の渡辺さんは「軍備拡張競争の開始」と表現している。

カンブリア爆発では、すべての動物門で突如として硬い殻が進化している。少量の光しか存在しない深海のような場所では、生物の個体量や体積量は変わらなくても、生物種の多様性が低い。進化速度を計算すると、魚類のような像形成眼の進化は50万年足らずの短い期間で達成されうる。5億4400万年前から5億4300年前のあいだの100万年間のうちに視覚は生まれた。この期間には太陽光に関する環境変化が背景としてあったかもしれないが、この点は保留されている。いわばこのとき、地球の動物に光が灯されたのだ。先カンブリア期の捕食行動はかなり行き当たりばったりだったが、視覚の誕生はこの状況を一挙に変えた。三葉虫こそ眼をそなえた最初の動物であり、能動的捕食をはじめた動物であった。

この本の読みどころはひとつではない。ひとつ目はもちろん、こうした光スイッチ説の提唱だ。二つ目は、進化に関する仮説を検証する手法の好例となっていること。化石を分析し、現生生物を研究し、光の物理的性質を学ぶ。太古の事象に関する推論であるにもかかわらず、その証拠集めには手堅さが感じられる。これらと比べたら、認知心理学的な進化論がとっている論法がいかに脆弱か。

三つ目は、視覚にまつわる生物たちの生存戦略の驚くべき多様性、パノラマ。本書全体がそうだけども、とくに「第三章」。光スイッチ説の提示に対しては寄り道に近いかもしれないが、この章は、何度でも読み返したい、優れた自然史の読み物になっている。

[J0325/230105]

安達宏昭『大東亜共栄圏』

副題「帝国日本のアジア支配構想」、中公新書、2022年。

序章 総力戦と帝国日本―貧弱な資源と経済力のなかで
第1章 構想までの道程―アジア・太平洋戦争開戦まで
第2章 大東亜建設審議会―自給圏構想の立案
第3章 自給圏構想の始動―初期軍政から大東亜省設置へ
第4章 大東亜共同宣言と自主独立―戦局悪化の一九四三年
第5章 共栄圏運営の現実―期待のフィリピン、北支での挫折
第6章 帝国日本の瓦解―自給圏の終焉
終章 大東亜共栄圏とは何だったか

そんな経済力もないのに、戦争継続を可能にする自給を目ざして、場当たり的にぶちあげた「大東亜共栄圏」構想。意志決定機構が分立していて政策が進まず、南方の棉作政策のように、虫害が危ないと最初からわかっていてやっぱり失敗したりする。「今も昔も日本は」と言ってしまいたくなるような、ことの顛末。

たいへん勉強になるが、大東亜共栄圏を「八紘一宇」的なスローガンから切り離して、「経済的な自給確保」こそが「本質」と言ってしまうのはどうか(iii)。どちらだけを「本質」にしてしまわなくても、両者は両立する。筆者がまさに描き出しているとおり、大東亜共栄圏構想において、多分に名目的・形式的にぶちあげた「自主独立」が、各国の自己主張へと繫がっていった。つまり、経済的政治的な建前が、逆手に取られるかたちで建前以上の理念として機能してしまったわけだ。こうした機微こそが大事なのだから、「イデオロギーより経済が本質」と断じてしまってはいけないのでは。実際、大東亜共栄圏の理想をもって、帝国日本の政治体制を正当化する人たちは今でもたくさんいるわけだからね。あるいはそうした人たちに対する論駁として経済的目的を強調しているのかもしれないけど、やはり両面を捉えてこその歴史的現実の把握なのでは。

[J0324/230104]