Month: November 2023

篠原匡編『TALKING TO THE DEAD』

蛙企画、2022年。写真、和多田アヤ。

青森のイタコやその周辺の現在を撮った写真集風の1冊で、執筆陣は山折哲雄氏や島薗進氏、鵜飼秀則氏らとたいへんに豪華。

主なコンテンツ
①中村タケさん口寄せの全文
②中村タケさん インタビュー
③イタコの唱え言解説イタコとは何か(郷土史家、江刺家均氏)
④「最後のイタコ」松田広子さん インタビュー
⑤日本人の信仰とその歴史(正覚寺住職・宗教ジャーナリスト・鵜飼秀徳氏)
⑥日本人の霊魂観(宗教学者、山折哲雄氏)
⑦科学とスピリチュアリティ(宗教学者・島薗進氏)
⑧川倉賽の河原地蔵尊住職・佐井川智道氏インタビュー
⑨存在の彼岸(ジャーナリスト・作家・金田信一郎氏)

しかし、盲目のイタコはもう、90歳の中村タケさんおひとりだけとのことで、写真集を出すにはさすがに時期を逸しており、内容には水増し感がなくもない。解説には英語対訳がついていて、英語話者にはいいかも。あと写真の中では、川倉の地蔵道の化粧地蔵のところは折り込みになっていて迫力がある。

[J0427/231121]

金光教本部教庁『金光大神』

金光教本部教庁発行、2003年。

岡山県浅口市に本拠を構える金光教、その教祖「金光大神」(1814~1883)の伝記。教祖120年祭の年に出版された、教団にとって正式な教祖伝で、1953年発行の伝記を更新する意味を持つ。

序章
一章 金光大神の出生と生い立ち
二章 青年期
三章 相次ぐ苦難
四章 神との出会い
五章 信境の進展
六章 取次専念への道程
七章 取次専念
八章 迫害と試練
九章 取次の宮建築
一〇章 幕末(慶応年間)の金光大権現
一一章 明治維新の政策と金光大神
一二章 神前撤去と信心の一新
一三章 官憲による干渉
一四章 宮建築の新たな動き
一五章 宮の社地確定と社号改称への動き
一六章 金光大神とその家族
一七章 教団組織化の機運
一八章 晩年の金光大神とその公前
一九章 金光大神の死
二〇章 葬儀と前後の様子
二一章 一子大神の帰幽
終章 金光大神の教え

本書には、ひたすら信心に生きた金光大神の生涯が描かれているわけだが、後半生は、明治新政府の宗教政策に対する苦慮の歴史でもある。金光大神が神から「取次」の依頼を受けたのは1859年(安政6)46歳のときで、1868年つまり明治元年のときは55歳、帰幽したのは1883年(明治16)、70歳のとき。

最初に気になるのは、教祖(もともとは川手文治という名)が「金光大神」と自ら神を名乗っていることではないかと思うが、これは天地金乃神から授けられた神号で、「神の取次者として神と同等」とは言われているが(268)、いわば本当の神である天地金乃神とは一線を引いている。最初の神号は「文治大明神」で、続いて「金子大明神」となってから、「金光大神」という神号に至っている。この神号は、金光大神のみならず、妻(「一子大神」)やかなりの数の篤信者にも与えられており、金光大神だけが神を名乗っているわけではない。生前から神を名乗る、こういった神という称号のあり方は、ほかの宗教でも類例があるのかどうか。ときには信心そのものが「神」とされ、「かわいい(かわいそう)と思う心が、そのまま神である。それが神である」といった金光大神の言葉もある(367)。

天地金乃神は、広く民衆に信仰されてきた金神のことである。従来金神は、多くの神々のひとつとして、しばしばたたりをなすものと位置づけられてきたが、金光大神にとっての金神は、ひとえに人間を守り助ける神であり、そうしたものとして、他の多くの神のなかでも格別な立場にある神として現れている。天地金乃神は、腹痛への対応であるとか、屋敷普請のしかたであるとか、農作業のしかたであるとか、あるいは役所への対応方法であるとか、日常生活の細々とした事柄に関しても「お知らせ」を与えているところも特徴的である。

天地金乃神も金光大神も、従来からの神仏信仰を否定せず、むしろそれを大事にしている。実際、金光大神は、神号を授かる前は吉備津神社で鳴釜神事を仕えてもらったり、西大寺の裸祭りにも参加している。ほかにも、信者に土地の氏神への信仰を薦めたり、天地金乃神と金比羅さんとの関係を述べたエピソードがあったりで、こうした「宗旨嫌いをしない」姿勢が、明治新政府の宗教政策のなかで金光教が生き延びることのできた理由のひとつでもあるだろう(一時期は素戔嗚神社を名乗っている)。

ただし、従来の信仰をそのままに呑みこんでいるわけではなく、目立つのは、従来の因習やしきたりの否定である。もともと、文治の信心には家の建替とその「日柄方角」にまつわって生じた数々の不幸な出来事が関わっていたようだが、天地金乃神はたびたび、こうした種類の日柄方角、お産に関わる禁忌、物忌みなどに囚われることを否定している。金光大神の子供たちがお祭りの餅つきで言い争ったときも、天地金乃神は「仲良くして将来繁盛するほうがよければ、餅をつくな。仲良くせず将来難儀をしたければ、餅をつけ」と申し付けている。

ここには、信心こそが第一であって、それ以外の因習はとるに足らないとする、合理的態度がある。「金光大神の道は祈念祈祷で助かるのではない。話で助かるのである」という金光大神の言葉も、形式だけの儀礼の否定と捉えることができる。ただ、このように従来の因習を斥けるとしても、なんらかの絶対原則を立ててばっさりと全否定するのではなく、そのつど、その場その場で道を説くというやり方を採っていることがまた特徴である。

このことに関する金光大神の言葉、「人間は勝手なものである。生まれる時には日柄の良し悪しも何も言わないで出てきていながら、真ん中の時だけなんのかのと勝手なことを言って、死ぬ時には日柄も何も言わないで駆けっていってしまう」(527)。信者ではない僕も、この言葉には納得させられる。

このように、基本的に神仏信仰全般を否定しないのが金光教の教えであるが、ライバル(?)の黒住教についてはこんな天地金乃神の「お知らせ」もある。「黒物、くろずみ、墨は黒い。世間でも、黒むがよい、と言うことがある。暗くては物事が見えないとも言うであろう。金光とは、金光ると書く。明るいほうは、だれでも見るであろう。おいおいには明るいほうへ人が来る。天地、あめつちを忘れるな(以下省略)」(469)。本書ではこの言葉を解説して、「黒住教が、天の恩恵を説くのに対して、金光は、天だけではなく地の恩を併せ説き、地の恩恵を抜きに人間が生きることが考えられないということを、このお知らせは示している」としている。

天照大神をいただく黒住教発祥の地は岡山市。お遍路が根づく四国独特の風景はよく知られているが、岡山県の宗教風土にもまた独特のものがあるなあと、感じるところ。

[J0426/231119]

エチエンヌ・トロクメ『キリスト教の幼年期』

加藤隆訳、ちくま学芸文庫、2021年、原著1998年。

1 キリスト紀元初めの頃のユダヤ教
2 洗礼者ヨハネとナザレのイエス
3 エルサレムの初期教会  
4「ヘレニスト」の再活性化  
5 パウロの最初の活動  
6 前方への逃避  
7 教会のリーダーとしてのパウロ  
8 神学者および殉教者としてのパウロ  
9 六〇年代の重大危機  
10 キリスト教の反撃  
11 パウロの後継者たちの目覚め  
12 大人として成熟したキリスト教に向けて  
13 強化とヘレニズム化  
結論

イエスの死後、もともユダヤ教の一部であった「イエス派」が、パウロらの活動を経て、ユダヤ教から分離独立する過程をたどる。時代としては、キリスト教史の最初の1世紀である。「イエスの早過ぎた死、復活者の度重なる顕現、弟子たちのエルサレムへの定着、ヘレニストによって生じた動揺、教会主流とのパウロの断絶、60年代の凄まじい嵐、ヨハナン・ベン・ザッカイとその弟子たちによるユダヤ教の再興、90-100年頃のシナゴーグからの「ミニム」の追放、2世紀初めのギリシア・ローマ社会への同化についての大議論の開始」(273)。

ナザレのイエスだけでなく、パウロもまた不遇のままに死を迎えたのであり、その活動や思想が「再発見」されたのは死後のことであった。

パウロは、回心(信仰)こそ民族的帰属に優越することを強く主張したのであり、したがってユダヤ教の慣習やシナゴーグからキリスト教信仰を切り離す契機をもたらした。しかし彼は、挫折のうちに死することになった。「パウロの人生の最後の5、6年は試練の時期であった。そしてこの試練の時期は、活動的な伝道者であり、そして教会のリーダーとして自分の群れへの愛着がたいへん強い人物であったパウロが、エルサレムでも、ガイサリアでも、ローマでも、ほとんど完璧に何もできない状態に追い込まれてしまっていただけに、彼にとってたいへん厳しいものであった」(183)。「アウトサイダーとなってしまったこの自分の殉教は、ローマのキリスト教徒たちにはほとんど反響を生じさせなかった。文学においても、またキリスト教芸術においても、ローマ人たちにとってパウロがペトロの対となる存在であるとされるようになるのは、4世紀になってからのことである」(184)。

パウロの思想とは異なるキリスト教諸グループは、ずっとシナゴーグの庇護の下にあったが、ユダヤ教が破滅的な危機(それはキリスト教の危機でもあった)を迎える中で、独立の道をたどることになる。「紀元100年前後になるとキリスト教徒たちは、シナゴーグに対して論争することを止め、また自分たちこそが真のユダヤ人であると示そうとすることを放棄する。彼らは、自分たちが広い世界の中に放り出されているということを悟っている。自分たちの根源がユダヤ教の聖書およびイエスの短い地上での任務活動に存していることを受け入れた上で、この新しい状況について考えようと努力している。彼らのキリスト論および教会論の最終的な形は整えられた」(256)。

本文とは直接関係ないが、文庫版あとがきの、神学や新約聖書学の世界における西洋中心主義を示す著者の体験談がおもしろい。とくに、あのモルトマンのエピソード。「私は、トロクメ先生が指導した学生だった者で、日本人だと紹介された。すると、モルトマン先生は、自分が知っているコリアンの人の話を始めて、そしてその話をずっと続けるのである。・・・・・・私と話をするのを避けるため、日本の話を避けるために、アジアについて自分が知っている少ない知識にずっとしがみついていたという感じだった。・・・・・・モルトマン先生は、高名な学者である。優秀な人である。しかし、世界の諸文明のことが分かっていないことが、自分でも分かっている。それを見破られたくない」(314-315)。なるほど。

[J0425/231117]