Page 175 of 241

宮島利光『チキサニの大地』

日本基督教団出版局、1994年。

第1章 自由の天地
第2章 信仰と文化の周辺
第3章 アイヌ社会の構造
第4章 南の侵入者たち
第5章 シャクシャインの独立戦争
第6章 強制連行と奴隷労働
第7章 襲いくる「開拓」の嵐
第8章 「旧土人保護法」
第9章 三つの強制移住事件
第10章 抑圧と差別に抗して
第11章 いま、民族復権への闘い
第12章 私の出会いから

筆者は職業的な歴史学者ではないが、先行研究を利用しながら描くアイヌ民族の通史。逆に読みやすいという面もある。キリスト者という背景があるのと、アイヌ寄りの立場からの記述であることは明らかだが、抑圧を受けてきたマイノリティの記述に「中立」があるわけでもなく、また望ましいわけでもないだろう。

こうしてみると、アイヌの歴史は悲惨で過酷な収奪の歴史である。美しく大地に根ざして生きる人々とその文化もまたアイヌの真実なら、シャモによる抑圧や差別と、それを内在化し鬱屈した人々もまたそうである。アイヌをめぐる状況は、ここ数年で大きく転換した。まだウポポイを訪ねてはいないが、アイヌの文化と歴史のポジティブな面だけが強調される風潮には非常に違和感を感じる(それはウポポイの前身のこぎれいな博物館のときにはすでにそうだった)。「ウポポイ以前」におけるアイヌ文化の存在――わかりやすく言えば、通俗的な意味における、「昭和」の――にはなにか薄暗さ、陰鬱さがあって、それは抑圧の歴史が生々しく尾を引き、少なくとも部分的には消え去ってはいなかったからだろう。本書には、行政が言うところの「北海道100年」とされた1968年、静内のシャクシャイン像が作られたさいには、その台座に町村金吾の名が刻まれたことに強い抵抗の声があり、それを削り取って逮捕された人たちがいたことが記されている。「ウポポイ」にはそうした頑強な抵抗があったろうか。21世紀にそうした強い抵抗がなかったとして、それは本当にアイヌ民族への理解が深まった証なのだろうか。

これとは別の話、1994年出版の本書には、べてるの家に関するエピソードが出てきて、向谷地さんも登場している。そういえば、べてるの家の本は何冊か読んできたが、アイヌとの関係について書いたり論じたものは見たことがない。もしかするとこれって、べてるの「技法」を考える上でも、重要なポイントなのではないか。少し気にしておきたい。

[J0182/210803]

森元斎『国道3号線』

共和国、2020年。

第1章 新政府か反動か、あるいは…西南戦争・山鹿コミューン・アジアの革命
第2章 水俣病と悶え
第3章 炭鉱と村
第4章 米騒動

「国道3号線」というラインに掲げて、九州の民衆史を辿ろうという試みは魅力的だ。抵抗の民衆史としてアクチュアルな主題でもある。

しかし、軽い。取りあげている人物や事件は、たしかにひとつひとつ意味の深いものなのだが、対象が重いだけに記述の軽さがいっそう際立つ。たとえば、石牟礼道子の悶えを取りあげても、結局のところ著者自身はその悶えを共有してはいない。あるいは、やすやすと共有していると思っているところで共有していない。かといって、その分だけ、学者としての立場を徹底しきるというわけでもない。「民衆史を掘り下げる」と言っているが、資料・調査の面か、あるいは分析・思考の面か、いずれかで執念深く掘りさげる深度がほしい。

良心的ではあるのかもしれないけど、石牟礼道子の世界によりは、『苦界浄土』に描かれていた、どやどやと水俣に押しかけた医学者や運動家たちに近い。10年20年をかけても、次作ではこの印象を裏切ってもらいたい。

[J0181/210731]

アーロン・L・ミラー『日本の体罰』

石井昌幸、坂元正樹、志村真幸、中田浩司、中村哲也訳、共和国、2021年、原著は2013年。

序章 第1章 人類学と体罰
第2章 日本の体罰史―その重層性
第3章 体罰とコンテクスト
第4章 倫理
第5章 体罰の原因と文化の複数性
第6章 権力の言説、言説の権力
終章 「暴力的文化」の神話
補論 アメリカ合衆国における体罰

著者はアメリカ人で、オックスフォードで社会人類学の学位を取得した人とのこと。いかにもあちらの社会人類学の手法で書いた研究という一冊。(別にネガティヴな意味でそう言うわけではない。)人類学的研究と言えば厚いエスノグラフィーを期待してしまうところ、フィールドワークから直接得た材料はあまり多くはないが、この主題ではやむをえないところ。

R.ベネディクトの日本論を相対化し、体罰に関する「文化主義」的な見解から距離を取る。代わって、より歴史化した解釈を提示するとともに、日本文化を一枚岩ではなく多様な立場や解釈の絡み合いという見地から理解しようとする。フーコーの規律権力論を背景のひとつとしているのも「いかにも」だが、このフーコー的解釈が成功しているかは微妙なところ。

個別の指摘でおもしろいと思ったのは、体育教師は体罰教師の役割を演じるように強いられているという指摘で、それは森川貞夫や菊幸一による指摘もすでにあるらしい。また、体罰を含むヒエラルキー的構造が「チームらしさ」の感覚に結びついているという指摘。

事象のレベルで手薄なのは、軍隊教育とその影響に関する記述と考察。目も覚めるような分析とはいかなくとも、社会人類学のアカデミックなフォーマットで日本の体罰についてまとめたという点で価値のある本。

[J0180/210731]