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神崎宣武『吉備高原の神と人』

副題「村里の祭礼風土記」、中公新書、1983年。

第一章 高原の土と水
第二章 氏神の秋祭り
第三章 荒神の式年祭
第四章 株の祭りと家祈祷

著者39歳の頃の一冊。2023年2月にNHKで特集番組もあったが、今回美星町や中世夢が原を訪ねる機会があった――宇佐八幡社もお参りしてきた――ので、昔読んだ本を再度手にとる。番組の中でも語られていた、司馬遼太郎に「命じられて」書いたという民俗誌。講談社学術文庫で再版された『神主と村の民俗誌』(旧題『いなか神主奮闘記』1991年)は、筆者の語り口も確立されて読みやすいエッセイ風の一冊だったが、こちらはそれに比べるともっとかしこまった、要するには、信仰生活を中心とした美星町八日町のエスノグラフィー。

当地には、氏神(宇佐八幡)に加えて、地縁的な集団でである荒神組、祖霊の祀りであって血縁的な小集団である株神組が重層的に存しているという。株神として祀られているものの多くは摩利支天で、それはこの辺の家系が小笹丸城の家来で、武家との関係があるからではないかと、著者は推測している。

「一代に一度は八幡様の大当番」と言われていて、負担の重い当番が、かつては家の造作や調度品のあつらえを行う機会でもあったという指摘に、なるほど。

さまざまな機会に催される備中神楽も大きな特徴。神楽の口上のなかに、ミサキも現れる。猿田彦(さだびこ)が舞いながら「東西南北に御崎はないか」「死魔はないか」と。土地に祀られている御崎神には、火御崎神と水御崎神とがあり、火災や水害による不慮の事故が起きたときに、ふたたびそれがないように祀るものだという。

著者は、吉備以上に出雲の影響が強いと指摘しているが、神楽には出雲神話もたっぷり盛り込まれている。神楽の即興的な掛け合いとして紹介されているもの。「さって、この神殿の真中に立っているハンサムボーイを、いかなる者とや思うらん。我こそは出雲の国楯縫の郡、小阪井村に鎮座仕る松尾明神、酒造りの守護神にて候。それがしを尊信する者は、清酒、焼酎、濁酒、はたまたやけ酒をいくら飲んでも、悪酔もさせず二日酔もさせんとのご託宣せり。これより神変奇酒毒酒八千国造らばやと存じ候。やあ、お囃し御苦労千万」(97)

NHKの番組では、いまでもなんとか細々と、伝承が続いている様子が描かれていた。中世夢が原もなかなか閑散としていたが、それでも夢が原と神崎先生という地域の歴史を伝える拠り所があるのは、この地域の幸運だろう。

[J0351/230403]

橋本倫史『水納島再訪』

講談社、2022年。

1 夕日
2 庭先
3 井戸
4 桟橋
5 校舎
6 灯台

この著者による『ドライブイン探訪』が同人誌のときから好きで、その後も著作をちょこちょこと読んでいるわけだが、本書はなんと、沖縄本部町から船で15分のところにある小島、水納島の滞在記。なんと、というのは、極個人的な理由であって、僕も何の目的もなく、ふらっと滞在したことがあり、そのことが思い出になっている島だからだ。海水浴の時期は人で賑わう場所らしいが、僕が訪れたのは2月で、「何もないのに」と水納島に来たこと自体を笑われたもんね(地元民にではなく仕事で来てた人に)。橋本さんとは感覚が近いのかな。

聞き取り調査のようで、エッセイのようで。それでいて、あれこれ資料にも当たっていて、巻末には解説付きのリストもついている。学術的な参考文献だけではないので、ほう、椎名誠も水納島に来たことがあるんだな、とか、眺めていても楽しい。

学術的な調査ではないからこそ拾える、地元の人がなにげなく語る、断片的な過去の思い出話の数々。橋本さん独特のアプローチには、「なんかいい」を生みだす理由がある。「なんかいい」を形にとどめて残せるのはすごいことだ。

過去の記事
>橋本倫史『市場界隈』

[J0350/230331]

M.チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』

副題「視覚革命が文明を生んだ」、柴田裕之訳、ハヤカワノンフィクション文庫、2020年。原著は2009年、2012年に出版された訳書の文庫化。

第1章 感情を読むテレパシーの力―カラフルな色覚を進化させた理由
第2章 透視する力―目が横ではなく、前についている理由
第3章 未来を予見する力―目の錯覚が起きる理由
第4章 霊読(スピリット・リーディング)する力―ヒトが文字をうまく処理できる理由

章ごとにけっこう内容は異なっている。

第一章。肌色は、肌色としかいいようのない色であるが、それは裸のサルである人間にとって肌がフルカラーのディスプレイとして役立つように、つまり相手の感情や生理的状態を読み取ることができるように自然淘汰を受けてきたからだという。さらに、「私たちの色覚は、肌の自然な特性に応じて進化したのであり、その逆ではない」という(61)。

「男性の一割近くが色覚異常なのに、女性は0.5%に満たない。それどころか、ほとんどの新世界ザルは、メスにしか色覚がない」(76)。このことに対してチャンギージーさんが与える説明は、乳幼児の健康状態を知るのに、顔色のシグナリングを受けとることが非常に重要だからであるというもの。

第二章。人間のように前方方向に目がふたつ、ある程度の間隔で付いている動物は、目の前の障害物とその背景を同時見るためにそうなっているという話。つまり、葉が生い茂っている森のような環境への適応であると。もし、サバンナのように見通しのよい環境であれば、目は側面にあったほうが広い視野を獲得できる点で有利である。もちろんそのとき、葉(障害物)に対する体の大きさも、目に求められる機能を決定する要因となる。実際、体の小さな生物で、目が前向きについている生物はいないらしい。

ところが現代世界の生活空間は見通しのいい状況になっていて、こうした「透視能力」を遊ばせていることになっていると、さらなる視覚技術の進化までを著者は想像している。

第三章、とくにおもしろい章。視覚とは、目の前の世界を写しとることを一義とするものではない。それは、人間が安全かつ効率的に運動できるように進化してきたものだ。そのためには、たんに現在の状況を知覚するのではなく、動きの中で「未来予測」を含んだ知覚である必要がある。

こうした未来予測は誤ることもあるが、そうした記憶は消去して是正するしくみが脳に備わっているらしい。未来予測やその是正というこうしたしくみの応用から、各種の錯視が生まれる。「本当は同じ長さの線がちがう長さにみえる」みたいなやつだったり、動きが生まれる錯視だったり。こうして、錯視図形のすべては「現在を知覚する」という観点から統一的に理解できるとする、「錯視の大統一理論」を仮説として提唱する。

視覚はカメラとは異なるということ。これらの話は、スポーツ科学や知覚の現象学に対しても非常に重要だし、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』の議論などとも関連づけられそうだ。

第四章。文字のようなシンボルの形態が、自然界の知覚に由来することを論じる。

*こちらはヒトの視覚の進化の話で、パーカーの議論はカンブリア大爆発における視覚の進化の話でぜんぜんちがうといえばちがうけど、「視覚と進化」ということで記事へのリンクを貼っておく。
>A.パーカー『眼の誕生:カンブリア紀大進化の謎を解く』

[J0349/230330]